1674話 「旅行人編集長のーと」に触発されて、若者の旅行史を少し その22

 『ヨーロッパ鉄道の旅』をめぐるあれこれ 4

 

 横浜から船で出てシベリア鉄道・モスクワそしてパリまでのツアー代金と、日本からパリ往復の格安航空券代金とそれほど変わらない値段だった1975年当時、それでも船を使った人の話だ。格安航空券の存在を知らなかった人の話は前回書いた。

 では、安い航空券の存在を知っていても、船で出国したのはどういう人だったのか。

  • 自転車で旅する人は、飛行機に自転車を積むと高額な追加料金を徴収されるので、船を使った。帰路は所持金などにより、自転車は売るか捨てるか、日本まで持ち帰るか決める。
  • 旅が1年以上続くとわかっている場合。航空券の使用期限は最長1年だから、長い旅になるとわかっているなら、往復航空券は無駄だ。片道航空券だと、シベリア鉄道経由の費用とあまり変わらなくなる。
  • ヨーロッパからインド経由など、できるだけ陸路で帰国したと思っているなら、往復航空券を買うのは無駄だ。

 上記のような場合でも、あえて往復航空券を買うという人もいた。1年以内に旅行資金が尽きたとか帰国したくなったというような場合に備えるという理由もある。往復航空券を持っていると、入国審査が楽になる場合がある。仕事が見つかったなど、旅が長くなったとする。ヨーロッパから日本への復路航空券が不要になった場合どうするのか。その裏技をロンドンで聞いた。

 ロンドンの安宿街アールズ・コートにあるスーパーマーケットの出入り口に、旅行者用の有料の掲示板・掲示板があった。メッセージを書き込んだ紙に、通常1週間後の日付けが入った店の判を押してもらい、料金を支払って掲示板に貼る。「ジェーン、オレはここにいるよ」という連絡や、「インドまで陸路で旅行予定。同行者求む」、「ルーム・シェア、女性限定。連絡を」といったメッセージの中に、「ニューヨークまでの航空券」とか「東京までの航空券売ります」というのもあった。

 旅行社の広告ではなく、旅行者の手書きメモだ。旅行者があまった復路の航空券を売ろうとしているのはわかるが、どうやって売るのだろうか。ロンドン生活が長い日本人と知り合ったので、私の疑問をたずねてみた。

 「この張り紙で、東京までの航空券を買いたいという人が現れたとする。希望する日時を聞いて、航空会社でその便の予約を入れる。出発当日、いっしょに空港に行き、売り主が買い手の荷物とともにチェックインをする。そのあと、搭乗券を買い手に渡す。航空券代金をいつ支払うかは、双方で話し合って決める。当時は、搭乗券に名前は入っていないし、ましてやバーコードで管理するという時代ではないからできたのだが、ハイジャック事件防止策のため、1975年のころには、この航空券不正販売はかなり危ない方法だったようだ。

 最期に私の話をしよう。1975年にシベリア鉄道経由でヨーロッパに行った。それがもはや安い移動手段ではないことはわかっていたが、シベリア鉄道ルートを選んだ。その理由はーー、

 1974年に引き続き75年も横浜港から出国したかった。横浜そのものにたいした意味はなく、ほかの港でもいいのだが、できることなら、空港から当たり前に出国する旅ではない方がおもしろいと思った。「船で日本を出る」という行為は、もはや消えゆくものだという認識があったから、船旅を選択した。だから、日本出国の日を船の出航日に合わせていた。

  • シベリア鉄道の旅はおもしろそうだと思ったが、ハバロフスクから飛行機でモスクワに飛んだ。変わらない車窓風景に退屈するという話を経験者から聞いていたからかもしれない。今なら、全線鉄道で行く。
  • できることなら、帰路が決まっている旅はしたくなかった。1982~83年のアフリカの旅まで、片道切符で日本を出ることが多かった。安上がりな方法ではないことはわかっていたが、貧乏なくせに、旅に「安く」よりも「おもしろく」を選んだからだ。

 ナホトカ経由のシベリア鉄道の旅は、1992年、ソビエト連邦崩壊とともに廃止された。同じ1992年に、それまで外国人は立ち入り禁止だったウラジオストクが開放されたことに伴い、富山県高岡市の伏木富山港とウラジオストク港を結ぶルートでシベリア鉄道の旅は継続された。その時代のシベリア鉄道旅を描いたのが『シベリア鉄道9300キロ』(蔵前仁一、旅行人、2008)だ。

 おまけ話。つい昨日、書店で『るるぶウラジオストク』(2020)を見つけた。そういう時代なんですね。

 

若者の海外旅行史をテーマにしている今回のコラムの原稿をこのまま隔日で更新すると、来年1月にずれ込んでしまうので、キリよく年内で終わらせるために、これから毎日更新することにしました。お忙しい方は年が明けてからゆっくり読んでください。