1675話 「旅行人編集長のーと」に触発されて、若者の旅行史を少し その23

 戦後旅券抄史 1

 

 パスポートの戦後史を知りたかった。

 この話を、1回読み切りのコラムにしようかとも考えたが、一次旅券も知らない人が多くなったから、この機会に長編を書いてみようと思う。

 パスポートの歴史を少し調べると、あまりに変化が激しく、「まあ、いいか」と思ってさぼっているうちに数十年もたってしまった。コロナ禍は、こういうややこしい事柄の研究にはもってこいのチャンスなので、やっと手をつけることにした。旅券の歴史を調べ始めたころは、まだインターネットの時代ではないから、数少ない資料を集めて読んだが、手掛かりはなかった。今回、ネットを利用して調べると、地方自治体の資料のなかに、県の旅券部が作った「旅券関連年表」がいくつも見つかった。例えば、福島県の「旅券発給の概要」のなかに「旅券関連年表」(24ページ)がある。

 さまざまな県に同じような年表があるということは、大本は外務省の資料なのだと思うが、その資料は探せなかった。

 参考までに、1964年の海外旅行自由化以前の戦後パスポート事情を書いておこう。

 すでに何度か書いているように、日本人の海外渡航が制限されていたのは外貨不足が原因だ。したがって、その時代に外国に行くということは、日本にとって有益な渡航であると証明しなければならない。外国に行きたいと思った者は、旅行社に依頼して、その渡航が日本にとっていかに有益であるかという書類を作成してもらう。自社製品の輸出契約のために渡航するとか、スポーツ大会などの出場で、国威発揚になるといった書類だ。留学のように、外国の政府や団体がその費用をすべて負担するという場合の手続きは楽だが、通常は渡航希望者はもっともらしい書類を作成しなければいけない。

 旅行社が作った書類は、毎週外務省のなかで開かれる海外渡航審査連絡会(外務・大蔵・通産各省、経済審議庁総理府科学技術行政競技会から参加)で審議され、うまくいけば渡航の許可が出る。この許可というのは外貨購入許可というもので、そのあと本籍地あるいは居住地の都道府県庁でパスポートの申請ができる。繰り返すが、外貨持ち出し許可が出て初めて、パスポートの申請ができるのだ。1956年の資料では、費用は1500円の印紙だった。当時、小学校教員の初任給は7800円だった。

 海外旅行自由化以後で言えば、外国に行きたいと思う者が真っ先にすることはパスポートを取ることだ。団体旅行参加者は旅行社が面倒をみてくれるが、個人旅行を考えている者には、実は、これが難しい。手続きが難しいのではなく、どういう手続きをすればいいのかという情報を得るのが難しかったのだ。簡単に言えば、こういうことだ。

 「地球の歩き方」シリーズは、個人旅行をしたい者のガイドのはずだが、手元の「タイ編」には、「パスポートの取り方」の説明がなかなかでてこない。手元にあるもっとも古い『地球の歩き方 タイ』1989年版はもちろん、90年代に入ってもビザの話はでてきても、「パスポート」という語さえ出てこない。1994~95年版には、「パスポートを取ろう」という短文はあるが、「必要な書類をそろえて、最寄りの旅券課にいこう」というだけの役立たずの内容だ。1999~2000年版で、やっと半ページのちゃんとした内容の記述がある。この年から編集方針が変わったのかどうかはわからない。1990年代後半か末からの変化かもしれない。

 1964年の海外旅行自由化以後に発行された各種ガイドブックを読むと、ツアー客用のガイドブックだからか、パスポート申請の方法が書いてない。「旅行社に聞け」という意味だろうか。パスポートの取得を旅行社に依頼しても、当人も同行しないといけない。旅行社がやってくれるのは、「写真2枚と戸籍抄本を用意してください」といい、後日旅券課に連れて行って、書類を渡し、「記入してください」というだけだ。申請は旅行社が代理でできるが、1週間後の受領は当人が旅券課に出向いてサインをしないといけない。代理はできない。現在JTBに依頼すると、5500円の手数料で書類に必要事項を記入して、代理申請をしてくれるらしい。

 『地球の歩き方』でさえ、パスポート申請の書類や手順を書かなかった理由がわからない。今ならインターネットで簡単にわかるが、それ以前の時代の話だ。

 今回、パスポートの歴史を書くために、『パスポートとビザの知識』(春田哲吉、有斐閣、1990年4刷)を買った。著者は執筆当時、外務省の旅券の専門家なのだが、私が今知りたいパスポートの変遷に関する記述は残念ながらない。ネット古書店では内容がわからずに注文するから、こういうことになる。

 次回から、具体的な話に入る。