1683話 日本語人 その2

 

 前回の、台湾の「ご婦人」の日本語のことを書いていて、突然、富岡製糸場での出来事を思い出した。富岡製糸場は1872年操業を開始し、1987年に停止した。私が取材のために訪れたのは1980年代なかばだから、まだ操業を続けていた。取材といっても、工場の外観の写真を数点撮るだけの仕事で、それにごく簡単な説明をつければそれで済むという簡単な仕事だった。

 すでに観光地として有名なところで、許可を取らずに外観の写真を撮ることに問題はないだろうと思った。

 「取材ですか?」

 その声に振り向くと、50代後半くらいの女性がそばに立っていた。

 「はい、ちょっと写真を・・・」と答えた。

 「お時間がありましたら、ちょっとお話しましょうか。ここのことを知っていただきたいので・・・」といって、その女性は施設の庭に建つ木造の家に私を案内した。

 その女性は職員が通う学校の教師だと自己紹介した。何を教えているのかも話したはずだが、覚えていない。華道か茶道か、もしかすると、行儀作法の教師だったかもしれない。

 話の内容はほとんど忘れてしまったが、わずかに覚えているのは「ここの子は、とってもまじめで熱心で、いい子ばっかりで・・」という称賛と、その人の美しい日本語だった。考えてみれば、1980年代に60代だとすれば、1920年代生まれだから、戦前の教育を受けたはずだ。台北で会った「ご婦人」の日本語のことを書いていて、富岡製糸場で耳にした日本語も同じように美しかったことを思い出したというわけだ。

 台湾で、「ご婦人」がしゃべる日本語だけを耳にしていたわけではない。台北駅近くの宿に泊まれば、すぐさま「あんた、救心持ってない? りんご、持ってない? 買うよ」と話しかけてくるおばちゃんはいくらでもいた。その日本語があまりに普通で、「外国人の日本語」ではまったくなかったから、九州か沖縄にでも行ったような感じだった。

 その宿の近くの屋台で、油飯(ユウファン)だったか魯肉飯(ルウローファン)だかを中国語で注文したら、おばちゃんが大声でしゃべった。

 「あんた、日本人でしょ! 日本人ならちゃんとした日本語をしゃべりなさい。変な中国語なんか使っちゃって・・・」

 「変な」と言われても、発音練習などしたことがないインチキ中国語なのは許してほしい。

 私が小丼の飯を食べていると、おばちゃんがしゃべりだした。

 「娘が、大学で日本語を勉強しているんだけど、もう、へったくそで、高い授業料を払っているのに、読む書く話すがまるでだめなのよ。アタシなんか、小学校しか出てないけど、ちゃんとした日本語、しゃべっているでしょ。読み書きだってできるのよ」

 東京の赤羽とか新小岩でおばちゃんと話しているような日本語だった。「台湾には、日本語をしゃべる人がいる」というのが、台湾に行く前の知識だったが、私の想像をはるかに超える日本語世界だった。