1687話 タイのちょっとうまいもの その1

 カポプラー

 

 外国旅行をしていて、すしやラーメンが頭に浮かび、よだれを垂らすというようなことはない。日本料理が嫌いというわけでは決してないが、すしよりも餃子の方が食欲をそそる。そして、餃子や焼きそばといった特定の料理よりも、「ああ、いいなぁ・・・」と、思い浮かべるとうっとりするのは、ほんの、ちょっとしたものだ。

 サバの塩焼きが大好きだが、旅先で思い浮かぶのは、皿の脇に小山にした大根おろしに醤油をかけた光景だ。あるいは、汁ものに浮かぶ薄切りのゆず。日本料理の用語に「天」というのがある。「鯛の兜煮 天柚子」のように使い、煮物や汁ものの上にのせる、山椒や柚子、白髪ねぎや刻みネギ、針生姜や小口切りの赤トウガラシなどを天といい、天をのせた料理を天盛りという。

 昔はこんなものを何とも思っていなかったのだが、歳を重ねるにつれ、料理の美しさが気にかかり、味と香りと美をほんのちょっと演出する「天」が、外国で食事をしていると懐かしい。

 最期にタイに行ってからすでに数年たち、日本でタイ料理が頭に浮かぶことはある。かつてタイで生活していたころは1日2食、昼と夜にタイ料理を食べていたから、半年の滞在でタイ料理を360回食べていたことになる。そういう食生活を毎年していた。

 日本で生活していてトムヤムクンのような特定の料理が頭に浮かぶことはほとんどない。タイで長期滞在していても、トムヤムクンもカオパット(チャーハン)もほとんど食べたことがない。トムヤムクン鍋物が基本だから、ひとりで食事する私には向いていない。食堂では丼でこの料理を出してくれることもあるが、もともとそれほど好きではないから注文しないのだ。カオパットは、いつ、どこででも食べられる料理だから、ほかに食べたい料理があればそれを優先するという方針だったので、半年住んでいても、こんなありふれた料理を1度も食べていないというのがむしろ普通だった。

 「あれは、うまいよな」と、今現在の時点で思い出す料理の話を書きたくなった。

 ふたつ頭に浮かぶ。

 そのひとつは、日本語媒体では「ガポプラ―」と紹介されている料理だ。旅行者が食べる機会はあまりないかもしれないが、タイ在住者なら知っている料理だろうが、どこの店でも食べられるわけではない。

 ローマ字表記すれば、kraphoというのが、人間で言えば胃であれ膀胱であれ、袋を意味する。plaaは魚で、kraphoplaaで魚の浮袋を意味し、その料理名でもある。カタカナ表記すれば「クラポプラー」で、アナウンサーはそのように発音をするが、会話調では「カポプラー」あるいは「カポパー」だ。kr―やpl―のように二重子音になるrやlはくだけた会話で発音しない。また、「ガポプラー」と表記する人もいる。

 タイ人は意識していないだろうが、元は中国料理だ。さまざまな魚の浮袋を使うが、なかでもニベ科のトトアバ(Totoaba macdonaldi)が有名だ。乱獲により生息数が減少したが、中国人による密猟が問題になっている。私がタイで食べていた浮袋は、何と言う魚のものかを知らない。

 魚の浮袋料理とはどういうものかという説明は、この動画を見てもらうのが手っ取り早い。ただし、私がタイで食べていたのはこういう高級品ではないし、食堂の料理でさえない。バンコクの路地を散歩していると、天秤棒を担いだ男を見かけることがある。天秤棒の端には、ステンレスの寸胴鍋がある。男に手をあげると、鍋を路上に置き、ふたを取る。強い香りはない。路上の浮き袋料理は、「フカひれスープのようだ」といっても「ああ、そうか」とわかる人は多くないだろう。醤油とカキ油味のとろみがついた汁だ。具は魚の浮き袋のほか、細切りのタケノコ、細切りシイタケ、うずらの卵は覚えている。男は椀に汁をすくい、上からパクチーを振りかけようとすることはわかっているから「パクチーはいらないよ」と告げて、手にした椀を手に、立ったまま食べる。酢やコショーもふりかけたような気がする。路上の、物売りの食べ物だから、高いわけはないが、いつもいくら払っていたか覚えていない。おそらく、麺料理1杯分くらいの値段だったのではないか。

 中国料理の姿をそのままとどめているから、ナンプラーもトウガラシも入っていない。ネットで検索すると、小鍋に浮き袋がごっそり入っている姿も紹介されているが、エアコンなど入っていないその辺のシーフードレストランで食べるなら、数百円で済むようだが、私はそんな贅沢さえしなかった。

 1回で終わるは話の予定だったのだが、書きたいことがいろいろ浮かんでくる。話が長くなる予感がするので次回に続く。