1688話 タイのちょっとうまいもの その2

 ヌア・ヤーン 前編

 

 タイの食べ物を思い浮かべていたら、いくつもの映像が出てくる。この話、長くなりそうな予感がする。

 タイ人なら誰でも知っている料理だが、いざ食べに行くとなると、あらかじめ情報を得ていないと、どこで食べられるかわからない料理がある。そのひとつが、私が大好きなヌア・ヤーンだ。ヌアは「肉」の総称だが、関西人のように、ただヌアといえば、牛肉を意味することが多い。豚肉はヌア・ムーだが、普通はただムーという。鶏肉はカイだ。ヤーンは「あぶる」という意味だから、ヌア・ヤーンは網焼きステーキのことだ。そういうと、高級レストランの料理のようだが、実は路上の味と呼んだ方がふさわしい料理だ。

 ヌア・ヤーンは、比較的よく知られている鶏肉の直火焼きカイ・ヤーンとともに、イサーン(東北タイ)料理だ。

 例によって、ちょっと余談をする。東北タイのことを、ウィキペディアではイーサーンと表記している。タイ語อีสานで、そのまま発音すれば「イーサーン」なのだが、実際の発音はイサーンである。冨田竹次郎編の『タイ日大辞典』によれば、方角の「東北」の意味なら「イーサーン」だが、タイ東北地方を意味する場合は「イサーン」と発音するという。はなはだ心もとないが、私の耳にも「イサーン」と聞こえる。だから、ウィキペディアの「イーサーン料理」には違和感がある。

 ヌア・ヤーンを求めてバンコクの街を歩く。イサーン料理の屋台を探すことになるのだが、その特徴は三方をガラスで囲まれたケースのなかに、生肉がぶら下がっていればイサーン料理店だ。ガラスケースはないが、パパイヤの和え物ソムタムをつく鉢を見かけてもイサーン屋台だが、生肉が見えないとヌア・ヤーンはない。トリ肉を竹で挟んであぶり焼きしたカイ・ヤーンは置いている屋台はある。

 ある年のこと、久しぶりにバンコクに来て、いままで泊まったことのない地区でヌア・ヤーンを探したら、2時間かかったことがある。生肉が見えたので、「ヌア・ヤーンはできる?」と聞くと、「ブタならあるけど」という返事が返ってくることが多い。

 世にあまたある食べ歩きガイドやエッセイには書いてないから、余談ながら解説しておく。すでに書いたように、タイ語でヌアは肉のことだが、普通は牛肉をさす。つまり、肉とは牛肉のことだ。かつては、どこの地域でも農耕用や運搬用に牛や水牛を飼っていて、お役御免になれば、催事のときに村で食べただろうと思う。

 文献調べなどせず、まったくの想像だが、ブタが中国雲南方面から少数民族を通じてタイに入ったルートと、中国南部から移民たちが持ち込んだ2ルートがあるのではないだろうかと想像している。北部山岳地帯では、牛が活躍できる地形ではない。ブタをよく食べる地域は、より中国化した地域だと言える。東北地方は長らく精霊信仰の世界で、仏教が入ってくるのも百数十年前あたりらしい。農耕にも運搬にも使えないブタは、完全に食用目的だから、飼育が遅れたのではないか。

 昔のニワトリはあまりタマゴを生まず、目覚まし時計替わりに飼っていたという。タイ中部や南部で食べられていた家畜の肉は、通常はせいぜいカモかアヒルだろうと考えられる。水田に放てば、草や虫を食べてくれて、稲の収穫後は食用になる家畜だ。それに加えて「お役御免」になった水牛と、おそらく「野生生物の肉をたまに食べた」というのが現実的な推測だろう。

 ちなみに、ブタの利用はタイの北ルートと南ルートがあるという私の仮説は、実は麺のルートと同じなのである。コメが原料の押し出し麺であるカノムチーンは北ルートでタイに入った。コメが原料の麺クイティアオや小麦粉が原料のバーミーは、19世紀に中国移民がタイに持ち込んだものだ。

 そして、中国移民には、牛肉を食べない人が多い。今はハンバーガーなどのせいで、牛肉を食べる人が増えてきたが、マクドナルドが出店したときは、牛肉を食べない人向けに豚肉を使ったサムライバーガーを出した。これは台湾で学んだ知恵だ。いまでも中国系の高齢者は牛肉を口にしない人がいる。牛は農耕で助けてくれたから食べるのは忍びないという考えがあるようで、中国でも牛肉をよく食べるようになったのはつい最近だ。レストランに行けばわかるが、数多い料理のなかで、牛肉を使ったものはそれほど多くない。

 長くなったので、ヌア・ヤーンの話は次回に続く。