1692話 タイのちょっとうまいもの その6

 ケーン・チュート

 

 ニワトリを丸のままゆで、その汁で炊いた飯の上にゆで鳥の身をのせた料理は、場所により海南鶏飯とかシンガポール・チキンライスなどと名を変えて、東南アジア各地にある。ユニークなのはマレーシアのマラッカのもので、英語名はチキンライスだが、飯にゆで鳥をのせているのではなく、飯がゴルフボール大に握ってある。

 タイではこの料理をカオ・マン・カイ(直訳すれば、鶏脂飯)といい、ネット情報によれば、日本人の愛好者も多く、日本の台所でどう作るかと言ったガイドも載っている。私もこの料理は好きだが、「ちょっとうまいもの」というには有名すぎる料理だ。私がここで取り上げるのは、この料理には必ずついてくる汁のことだ。コンソメのように透明で、具が入っているとすれば冬瓜のかけらだ。調味料は塩と、店によってはうま味調味料。ナンプラーは、多分入ってない。塩だけの味というのはタイ人(非華人)は苦手なのだが、珍しくタイでポピュラーになった料理だ。

 バンコクの屋台でこの料理を食べていたら、客のひとりが屋台脇の鍋に近寄り、この汁を椀に汲んでいる。「食べ放題かも?」と思い、私もまねしてお替りをした。食べ終わって札で支払ったら、おつりが少なかった。私が勝手にお替りをしたことを横目で見ていて、きちんと料金を請求したのだ。うまい汁だし、料金の請求は正当だからもちろん文句などないのだが、ちゃんと見ているんだなあと感心したものだ。

 この汁に特別な名があるかどうか知らないが、一品料理として注文するときは、ケーン・チュートあるいはトム・チュートという。タイ語学者の冨田竹次郎先生は、この汁を「お澄まし」と訳したと記憶している。透明だから、「お澄まし」でも「澄まし汁」でもいい。中国料理なら、清湯(チンタン)だ。

 タイ料理のケーンを、「カレー」と翻訳したい日本人が多い。どこかのブログで読んだのだのだが、ケーンを「カレーだと説明しているから注文したのに、色も味も香りもカレーじゃない。インチキだ!」と筆者は怒っていた。「カレー」という説明で、日本にあるカレーを期待したのだろう。日本のカレーに似ているケーンもあるが、赤や緑やまっ黄色や透明なケーンもあるから、ケーンを「カレー」と翻訳は問題が多いのだが、もう遅いようだ。

 カレーにもっとも似つかわしくないのが、このケーン・チュートだ。チュートは「薄い」「淡泊な」といった意味だ。トムは「煮る」。

 一品料理のケーン・チュートの具は、豆腐、春雨、ブタひき肉の粒。粒というのは、ブタひき肉を豆粒くらいにちぎって鍋に入れたもの。店によっては海苔を入れるところもある。海苔はサーラーイ・タレ―というのだが、ほぼ完全に中国料理の食材で、タイ料理としては一般的ではない。日本の海苔のように薄くはなく、マットのように厚い乾燥海苔をちぎって、スープ椀に入れて、このスープは完成だ。これも、私の大好物だ。タイや台湾に行くと、必ずこの海苔を探して買い込む。中国語では「紫菜」という。東京ではアメ横で買っている。通販でも買えるが、送料が高い。

 ある年の冬、冬と言ってもバンコクの冬だが、たまに20度前半の気温になると、「寒い」と感じるのが熱帯の冬だ。どうしたわけか風邪をひいたようで、丸2日部屋にこもったことがある。その間、飲まず食わず、いや水道の水くらいは飲んだかもしれないが、動く体力がないので、とにかく寝て復活を待った。買い置きの食料などないが、もしあっても何も食べる気にはならなかっただろう。

 病人3日目の夕方、なんとか外出できそうな体力が復活して、近所の飯屋に行った。そこで、ケーン・チュートと飯を注文した。汁が入った丼に飯を入れ、韓国料理のクッパのようにして食った。全身にスープがしみ込んだ。