1703話 東南アジアと日本の若い旅行者 その4

 狂乱のホテル事情

 

 1980年代後半から90年代の、タイホテル狂乱時代を身をもって体験している。その時代にタイで暮らしていたというだけでなく、親しい友人が旅行会社で働いていたので、旅行業界の裏事情も多少は知っている。その時の話を書いておきたい。

 タイの旅はいつもひとりで、その当時の常識で、宿の予約などしたことがなかったが、「満室です」と断られたことはなかった。祭りなどの行事が行なわれる時期でなければ、宿などいつでも飛び込みで泊まれるものだった。ところが、1980年代末になって、旅行者である私もホテル不足を体験するようになった。

 バンコクの私の宿は70年代は楽宮旅社で、80年代はジュライホテルだった。80年代末のある日、タイの地方をしばらく旅してバンコクのジュライに戻ってきたら、この宿で初めて「満室です」ということばを聞いた。その夜はしかたなく隣りの台北旅社に泊まり、翌日古くからの友人に「タイの宿泊事情がひどいことになっている」と訴えた。

 「旅行会社をやっている友だちがいい情報をもっているかもしれないかも・・」と、すぐに電話をかけてくれて、旅行社の上の階の空き部屋に間借りすることにした。その年は数週間の滞在で、翌年からは半年の滞在を繰り返すことになった。

 1990年になってからだと思うが、新聞でタイホテル協会の会長のインタビューを読んだ。

 「タイに観光客が多く来るのは、ホテル代が安いからだ。ホテル代が安いと、カネのない旅行者がタイに来て、ホテルの部屋をふさぐ。儲けが少ない。だから、ホテル料金はどんどん高くするべきだ。ホテル料金が高くなれば、金持ちの旅行者が多くやってくるようになるのだ」とホテルの高額化高級化を宣言した。

 ホテル代金が高くて嫌ならタイに来なくてもいいという宣言でもあるのだが、かなり高くなってもタイのホテルの質と価格は、世界的に見て評価は高かった。

 そうしたなかで、ホテルと旅行社の間で激烈な戦いが繰り広げられていた。

 団体旅行の流れの一例を示しておくとこうなる。日本の旅行社が、客に団体旅行を売る。客は旅行代金を支払う。ツアー内容に応じて、タイの旅行社がホテルやレストランや各種施設の予約を入れる。ツアーが終わり、客が帰国してしばらくすると、日本からタイに旅行費用が支払われ、タイの旅行社はホテルなどに代金を支払う。

 ホテル不足になると、予約が取りにくくなる。どうしても部屋が取りたいとなると、ホテルの予約担当者とジッコンにならなければいけない。場合によっては金品を贈る必要も出てくる。ホテル全体の利益を上げるには、宿泊料金の値上げと同時に、予約を確実なものにするために予約金を取る、あるいは全宿泊料金を前払いにするといった条件を突きつけられる。日本側が前もって費用を送金することはないから、しわ寄せは現地の旅行社にかぶせられる。

 友人が働いていた旅行社で、こういうことがあった。ツアー客がバンコクの空港に到着したら、ホテルの予約が予約担当者の手でキャンセルされていた。「もっと高い宿泊料を払う」という旅行社が現れて、そちらに部屋を回したのだ。「予約は確定していなかった」というのがホテル側の言い分だ。深夜到着し、翌日はパタヤ泊のツアーだから、とりあえずバンコクの1泊を何とかしたい。友人はガイド仲間などあらゆるコネを利用して、ツアー客6人を大病院に案内した。「非常事態なので・・」と客に説明した。

 ある日のこと、何の用があって行ったのか忘れたが、ドンムアン空港そばのホテルロビーに大勢の人がいるのに気がついた。「何かがあったのだろう」という程度にしか考えていなかったが、友人の話では飛行機が故障して飛べなくなったが、その乗客を泊めるだけの空き部屋はなく、空港近くのホテルのロビーでひと晩過ごしたのだという。

 この話を側で聞いていた知人が、「いいなあ、ホテルのロビーで」と言った。「オレなんか、インド行きの飛行機が壊れた時、その航空会社の職員が『空港の床の、どこでも好きな場所でご自由にお休みください』だぜ」。

 Bクラスのホテルを定宿にしている人は、料金が値上がりすると、Cクラスのホテルに移行する。Cホテルの客はDクラスに移り、安宿の常連客を受け入れる宿が著しく不足して、あらたな安宿街が必要になってくる。バンコクなら、カオサンの誕生だ。

 観光学などで、カオサンを取り上げる研究者は少なくないが、自分の体験を語るだけで、タイの観光キャンペーンとカオサンの誕生に本格的に触れている人は、多分いない。