1706話 東南アジアと日本の若い旅行者 その7

 旅行者からガイドブックのライターに

 

 1980年代前半に、個人旅行用のガイドブックが姿を見せた。その書き手は、宝島スーパーガイドアジアの場合は、香港編はかの山口文憲大竹昭子や平野久美子や中野道子も執筆者だということでもわかるように、その地に留学経験があるとか取材でなんども来ているとかその地で生活しているという人たちが寄稿している。ロンリー・プラネットの書き手も、その地に詳しい人らしい。インドネシアスマトラで会ったイギリスの若者は、インドネシア研究をしているハーバードの学生で、ロンリープラネットスマトラをひと月再取材して、『インドネシア編』のスマトラ部分の改訂版の作業をしていると言っていた。

 1980年代前半から出版が始まったこういう旅行ガイドを手に旅した若者が、1980年代後半から「地球の歩き方」の取材スタッフとして集められる。彼らの素性を知らないが、対象地域の専門家というわけではないだろう。現地の言葉が自由に使いこなせて、現地の資料を読み込んで文章を書いていくというわけではないだろうと推察しているが、実際はどうなのだろう。前原利行さんからいただいた『地球の歩き方 30年史』(非売品)を読んだのだが、ガイドブックライター達の話が出てこないのは残念だった。

 ガイドブックライターとかトラベルライターといった職業について、時々思う。ガイドブックの文章に主語はない。「私」の考えなどない方がいいのだ。大聖堂も宮殿も美術館も遺跡も、そのすべてを「是」として文章を書かないといけない。私のように、「観光地なんか、嫌いだよ」などと言ってはいけない。「バロック建築はつまらん」とか「キリスト教は肌に合わない」という内容の文章も、逆に熱烈に好きだという文章も、ガイドブックの主語なし文章で書くことはできない。

 なぜこんなことを書いているかと言うと、1980年代後半から出版される「地球の歩き方」は、地域にもよるがそれ以前に出版されたテキストがあり、ライターはそれを参考にできた。まだインターネットの時代ではないが、建築物や美術品や街そのものの解説は、日本語や英語の資料をある程度当てにできた。タイ語やドイツ語の資料を読まないと取材ができないという時代ではなくなった。

 しかし、1970年代や80年代前半は、取材者がガイドブックなしに移動していた時代だ。それまでに蓄積した現地の知識をもとに、その国の言語で書かれた鉄道やバスの時刻表を読み、美術館や博物館の解説書やパンフレットを読み、話を聞いてきた。まずは、自分が移動する交通や宿泊の情報を集めなければいけない時代だった。タイなら、少しはタイ語が読めないと、バスターミナルの行先表示も時刻表も読めない。係員は、ほとんど英語ができない。テレビや雑誌の取材ならコーディネーターがつくが、ガイドブック取材に普通はコーディネーターはつかない。そんな予算はない。

 その次の段階、1980年代前半になると、集積した情報を利用して、ガイドの原稿を書く者が現れる。そして、そのガイドブックを持って旅をした若者が、新たなガイドブックの原稿を書く。80年代後半以降は、地域にもよるが、すでに市販されている旅行ガイドがあり、それが、執筆するガイドの資料にもなったということだ。だから、タイ語ができなくても、タイの移動は大観光地に行くだけなら、ある程度できるようになった。

 昔は、旅行ガイドそのものがないのだから、「他社のガイドを盗用する」ということができない。現地の資料を勝手に翻訳して原稿にしようと企てても、その語学力があるか。簡単に盗用されたのは、地図だった。この件に関しては、「旅行人」編集長の天下のクラマエ師がいくつかのエッセイを書いている。Google Mapが登場するまで、地図をパクるのは音楽界同様常習犯罪だった。

 そのエピソードをひとつ。JTBのある国のガイドの地図を使いたいと、韓国の出版社が許可を求めてきた。正式な手続きをして使用許可を出した。その後、ほかの国のガイドの地図も次々と盗用されていることがわかり、法務が関わる面倒な事になっているという話を耳にしたのは1980年代初めだっただろうか。

 以前と比べれば、旅行情報を集めることそのものは楽になった。そういう時代のガイドブックライターたちは、「私」を主語にした話を書きたいとは思わないのだろうか。書きたい話題はあるのか、書ききる文章力があるのか、カネにならない文章を書く気があるのか、さて。

 ガイドブックライターの職人的技量には敬服するが、自己を表に出したいという欲望はないのだろうかと気にかかることがある。