1710話 東南アジアと日本の若い旅行者 その11

 タイのタイ料理店 前編

 

 タイでは、経済に関することはほとんどすべて中国人(華人、中国からの移民)が握っているといっていい。工業や流通業や金融業といった表の生業(なりわい)だけでなく、麻薬や売春や密輸などの裏の生業も中国人が握っている。外国企業もこうした中国人の企業との合弁だから、対抗できるのは王室管財局系列の企業だけだ。

 食文化で言えば、コメを作っているのはタイ人だが、コメを集めて運び、精米して売るのは中国人だ。野菜や果物やハーブやスパイス類の大量栽培は中国人がやっている。調味料の生産も市場の運営も、飲食店の経営も中国人がやってる。稲作を除き、食生活に関するあらゆることは中国人が深くかかわった。金属鍋もホーローや陶器の皿も、中国人が製造あるいは輸入して販売してきた。

 食文化史の基礎を話しておくと、民族料理店というものは、それをおもしろがる外国人の登場によって生まれるものだ。例外が中国であり、日本であり、フランスやイタリアなどだ。日本に古くから日本料理店があるのは当たり前ではなく、世界的に見れば特異な部類に入る。シンガポールのマレー料理店は、イギリス人など西洋人旅行者向けに誕生した。インドネシアインドネシア料理店も、西洋人に異国情緒を感じさせる目的で高級ホテルのレストランなどから始まる。朝鮮の料理屋は、日本時代に生まれたものだ。近代日本建築史を紐解けば、1930年代の「国際観光ホテル」も、蒲郡ホテル(現蒲郡クラシックホテル)のように、西洋人の趣味に合わせた「日本風建造物」は生まれていったことがわかる。日本人は建築も音楽も、「西洋そっくり」なものを絶賛したのだ。その代表例が、赤坂の迎賓館だ。ただし、日本料理を西洋人向けにすることはしなかった。西洋人向け日本料理店は、畳に座れない人用に、掘りごたつ式の席に座椅子を用意したものだ。

 歴史的な話をすれば、タイの飲食店は中国人が中国人のために作ったものだ。移民は単身の男が多く、そういう男相手の飯屋がタイの飲食店の始まりだ。新興地バンコクの住民は、王宮で働くいわば公務員を除けば、商売人も労働者も外国人(非タイ族)だった。この話は、19世紀末にタイに滞在したイギリス人が書いた”The Kingdom of the Yellow Robe”(Ernest Young,1898)に出てくる。

 タイ人は自宅で食事をしていたから、飲食店は中国人相手の中国飯屋だった。バンコク建設のため、地方からバンコクに出てくる者が増えていったが、それにつれて田舎の料理を食べさせる店が次々にできたわけではない。田舎では外食する習慣はなく、食費が高くなるので、飯場のようなものを作り、共同生活をしていたのだろうと思う。労働者用の飲食する場もあったが、せいぜい「屋台」と呼べるようなものではなかった。

 日が暮れたファランポーンバンコク中央)駅広場に、天秤棒の両端に荷物をかけて運ぶ女性が集まってきた1970~80年代を、私も知っている。歩道にムシロを敷き、籠から未熟のパパイヤやナガササゲ(トゥア・ファクヤーオ)などの野菜とつき臼をだして、ソムタムという和え物を作る。客の男がやってきて、ガソリンのように赤い酒(ヤードーンという名の薬用酒)を飲む。客それぞれに、お気に入りの女の子がいるのだろう。これが、イサーン(タイ東北部)出身者の「飲食店」だ。ネットを調べると、2010年代でもまだあったようだ。

 きちんとした店舗を構えたイサーン料理店が登場するのは1990年代で、それが新聞などで話題になるほど珍しいことだった。

 タイ料理は中国料理と混交することも多く、タイ旅行をする外国人に、「外国人が喜ぶタイ料理(と称するもの)」を出すようになる。あるいは、中国人でも食べることができるマイルドなタイ料理を中国料理店のメニューに加えるようになる。1980年代から90年代に、タイ人相手のタイ料理を出すおしゃれな店が登場するが、その経営者も若い世代の中国系タイ人だと思う。

 タイで高額のタイ料理を食べるのは、中国系か外国人たちなのだから、彼らの好みに合わせたものになる。タイ料理は、タイ国内ですでに「マイルド化」されていたうえに、日本でタイ料理店を開こうという人も、中国系タイ人である可能性が高い。タイ料理だけでなく、カンボジア料理店もベトナム料理店も経営者は中国系だろう。

 これが、タイ料理が日本はもちろん、世界各国で受け入れられた要因だろう。