1714話 東南アジアと日本の若い旅行者 その15

 1980年代以降のバリ

 

 初めてバリに行ったのは1974年だった。その当時、観光客がいたのは日本の援助でできたサヌールのバリビーチホテルだけらしい。雑誌の取材企画だったのか、永六輔がこのホテルで滞在した写真が、のちに出版された写真集にあった。ウチで現物を探すのは面倒なので記憶で書くと、『僕のいる絵葉書』(中央公論社、1975)だったと思う。ごく少数の日本人客はこのホテルに泊まっていたのだろう。

 クタビーチにもウブドゥでも宿と言えば看板もない民宿で、電気も水道もなかった。クタには「スリー・シスターズ」という英語の名の食堂が、たった1軒あったのは覚えているが、そこはヤシ林に椅子とテーブルを置いただけの食堂だった。屋根がないから、雨が降れば休業だった。朝飯は宿のおばちゃんが用意してくれた甘い紅茶と小さなバナナで済ませたが、それ以外の食事はすべてスリーシスターズに行っていたとは思えないので、何軒かの食堂はあったのだろう。実は、当時の日記で確認すればそのあたりの事情が、たぶんわかる。日記はいつでも取り出せる場所に保管してあるが、見ないことにしている。今は「事実」よりも思い出を優先させたい。

 太陽が沈んだあとは、たまたま民宿で出会った旅行者たちは、ランプを囲んでおしゃべりをしていた。ほかに娯楽はなく、それが最大の楽しみだった。

 いつできた決まりか忘れたが、「建物はヤシの木よりも高くなってはいけない」という規則があると聞いた。バリの中心地デンパサールを除けば、ヤシの木よりも高いのは、サヌールのバリ・ビーチホテルだけだった。『海外ガイド15 バンコクシンガポール・バリ』(日本交通公社、1974年)を見ると、「クタ・ビーチ」というホテルがあるとわかる。「デンパサールから約10kmのクタ海岸にあるバンガロー形式の小ホテル、室数15,料金は6ドルから」。この手の宿は何軒かあるようだが、「給湯やエアコンの設備がないので、一般向きではない」と解説がある。熱湯やエアコンなど求めない非一般旅行者である私の宿は1ドル程度だから、6ドルの宿など眼中になく記憶にもなかった。

 初めてのインドネシアの印象は、「タイよりだいぶ物価が高いな」だった。バンコクの楽宮旅社は1泊25バーツだった。1ドルが約20バーツ時代で、8畳ほどの部屋にシャワーがついていた。ジャカルタではゲストハウスのドミトリーの2段ベッドのひとつが約1ドルだった。そのくらいの違いがあった。食べ物も、質やバラエティーを考えれば、インドネシアの評価は低かった。両国のビザ取得の難易度に加えて、こういうことも、外国人観光客にとってタイはインドネシアよりも優位だった。タイの方が気楽に、安く旅ができたのだ。島を移動せざるを得ないインドネシアは、交通費も高くついた

 2度目のバリは、1984年だった。クタビーチはすっかり姿を変えていた。風と波の音しかしなかった1974年のクタは、髪の長い男や女が散歩し、木陰で雑談を楽しんでいた場所だった。おそらく十数人ほどの外国人が滞在していただけだったと思う。1984年のクタは、けばけばしいシャツやショートパンツを売る露店や、ジュース屋などがビーチに至る道路の両側に並び、それらの露店からアメリカのヒットソングが大音量で流れていた。ヒッピーのバリが、サーファーのバリに変身していたのだ。田舎臭い海水浴場に変わりつつあり、「ビーチリゾート」と呼べるようになるにはもう少し時間が必要だった。

 アメリカでは、1969年のウッドストック・フェスティバルを最後にヒッピー・カルチャーは終わったのだと言われていた。1975年にベトナム戦争が終わり、若者は戦場や路上やコンミューン(共同生活の場)から、学校や家庭や職場に戻っていった。白人の若い男たちは、髪を切りひげを剃り、スーツに身を包み、投資で稼ぐビジネスマンに生まれ変わっていった。そういう変身・転身ができない黒人と女は、新たな解放運動に進んでいく。それが1970年代後半で、旅するアメリカ人もアメリカ国外から消えた。

 先進国のそういう動きはわかっていたが、バリの変化の意味を今まで考えたことがなかった。「旅行者が急激に増えたんだよ」という程度の認識だった。旅行者が増えたことには原因がある。理由がある。ヒマな今は、そのいきさつをちょっと調べてみようと思った。