1715話 東南アジアと日本の若い旅行者 その16

 東南アジアとオーストラリア 

 

 東南アジアの旅行事情を調べ始めた行きがかり上、この際オーストラリアの現代史も少し勉強してみようと思った。

 中高校生時代に、「白豪主義」という語を学んだ記憶がある。アメリカのアジア系移民排斥法のようなものだろうと思っていた。オーストラリアにまるで関心がないので、それ以上調べようとしたことがない。今回調べると、英語ではWhite Australia policyといい、白人中心主義の民族差別法だとわかった。アジア人やアフリカ人を排斥するだけでなく、先住民アボリジニの子供を親から隔離して、「白人のように育てる」のが正しい教育という発想で、親から子供を奪うのが1969年までの法律だったと知ったのは、映画「裸足の1500マイル」(2002)を見たあとだがら、どんでもなく遅い。

 1970年代に、オーストラリアが変わり始めた。自分たちが住むオーストラリアが「あたかもヨーロッパの1国」と思っていたが、「アジアの1国」という認識に少しづつ変わっていった。「白人中心主義は誤り」という覚醒から、1973年の移民法改正、1975年の人種差別禁止法制定などがあり、広く世界から移民を受け入れる方向転換があった。

 オーストラリア軍はベトナム戦争に参戦し、1975年の終戦までに450人が戦死し、2400人が負傷した。1975年までのオーストラリアの若者には徴兵と戦死の恐怖と、大規模な反戦運動があった。オーストラリア人がベトナム人を殺しに行く非合理と、もしかして殺されるという恐怖が1970年代前半までの若者にはあったのだ。だから、ベトナム戦争が終わった1970年代後半は、解放の気分だったはずだ。

 1975年、オーストラリアはイギリス、アイルランド、カナダ3国とワーキングホリデー制度を始め、現在は19か国と協定を結んでいる。オーストラリアをめざす若者は、飛行機で直行ということもあるだろうが、往路か復路をのんびり旅する計画も立てた。例えば、イギリスの若者はロンドンからオーストラリアに飛び、ワーキングホリデーで働き、帰路はインドネシアシンガポール―マレーシア―タイへとビーチを巡りながら旅をして、バンコクで安い航空券を買ってイギリスに飛ぶ。あるいは、タイからインドに飛び、陸路でヨーロッパに戻るといった旅行だ。その逆のルートで先にアジア旅行をする者もいた。東南アジアから日本に行って、英語教師をちょっとやって楽しい時間を過ごし、シベリア鉄道でヨーロッパに帰るという計画を立てている若者もいた。そういう若者たちに、アジアでよく出会った。

 ワーキングホリデー制度が始まった1975年に出版された画期的な旅行ガイドが、新興出版社ロンリープラネット社の”South-East Asia on a Shoestring”だった。東南アジアの旅行ガイドだ。インドネシア旅行なら、”Indonesia Handbook”が出た。

 1940年代後半に生まれた団塊世代は、1970年代に20代になっている。オーストラリアにはイギリスを初めヨーロッパにルーツを持つ国民が多い。だから、両親や祖父母や親戚訪問を目的に、ヨーロッパとオーストラリア(ニュージーランドも)を行き来する長いルートができていった。オーストラリア人も、イギリスやアイルランドで合法的にしかも言葉の問題なしに働けるのだ。それは、イギリスやアイルランドの若者にとっても同じで、オーストラリアに着けば、1年は合法的に働ける。言葉の問題はない。1年働いて、半年か1年をアジアを旅することが簡単そうに見えた。役に立つガイドブックが出た。1985年にアメリカではプラザ合意があり、ドルの価値が下がり、アメリカ以外の主要国の通貨が強くなった。物価の安い東南アジアに行けば、長く旅できる。ビーチで過ごせば、ほとんどカネがかからない。寒い冬はない。ステキな出会いがある。そういう噂話がヨーロッパとオーストラリアやニュージーランドの若者の間に広まり、アジアへ誘い出した。

 団塊二世世代が旅をするようになる1997年、アジア通貨危機でタイやインドネシア通貨の価値が急激に下落する。タイの通貨バーツは、1ドル25バーツがいきなり40バーツほどになった。旅行者はいままでの半額の生活をするか、同じ支出で倍のぜいたく生活をするか考えどころだ。インドネシアの通貨ルピアの価値がどう変化したのか、日本円との対比で紹介する。100ルピアが日本円でいくらだったかという表だ。変動が激しいので資料によってかなりの差があるが、以下は平均値だ。

1974年 153円

1976年  76円 

1980年  36円

1985年  21円

1987年  8.8円

1989年  7.7円

1993年  5.3円

1998年  1.3円

2009年  0.9円

2022年  0.8円

 1984年に再訪したバリがサーファー天国になったいきさつの前後は、このようなものだっただろうと推察している。