1744話 初めての沖縄

 大雪の京都から大阪西成に出て数日滞在し、大阪南港から沖縄行きの船に乗ったのは1975年2月だった。「前回沖縄に行ったときはパスポートを持っていてね・・」という話を船客から聞いた。その時の旅が沖縄の本土復帰3年後だという知識はあったが、到着した沖縄が、3年前まで「アメリカ世」だったという実感はなかった。

 旅の予定など特になかったが、沖縄から船で石垣島経由で台湾に行き、そのあとは東南アジアに渡るというルートはおもしろそうだと思った。那覇で調べてみれば、たしかに台湾行の船はあり、その航路を利用したことがあるという旅行者にも会ったのだが、台湾から先の船便がないのが問題だとわかった。台湾からノーマル運賃を支払って香港に飛ぶか、船でまた沖縄に戻ってくるかという二つの選択肢しかなかった。台湾・香港ルートは交通費が高くつきそうなのでやめた。前年の7月に、横浜から船で香港に行ったから、今度は那覇・石垣・台湾経由で香港に行こうかと考えたのだ。今の若者に、なぜ「ネットで調べておかなかったのか!」とか「ガイドブックくらい読んでおくものでしょう」と言われそうだが、そのどちらもない時代の話だ。

 大阪で突然思いついた那覇・石垣・台北ルートの計画なのだが、それが不可能だとわかると、私の旅は方向を失った。指針のない、どーにもしょーがない旅行者になった。優柔不断だった。今旅をしているというのに、先の旅のことを考えて節約を考えていた。

 長い旅になるかもしれないと考えて、郵便貯金の通帳と印鑑を持っていた。そこに、ある程度のカネはあった。世間のサラリーマンはすでに銀行のキャッシュカードの時代に入っていたが、風来坊の私は日本国内の旅行ならまだ郵便貯金と印鑑を肌身離さない旅行者だった。クレジットカードなどまだまだ先の話だ。

 カネは少し持っていたが、できることならこのカネは外国旅行で使いたい。すでに外国旅行を体験しているので、「あの感動を再び」という気分だった。この沖縄の旅を終えたら、態勢を立て直し、旅行資金稼ぎに励み、日本を出ると決めていた。若者が、ひと月稼げば海外旅行ができるという時代ではまだなかったから、本気で稼がないといけなかった。

 沖縄を旅したいが、できるだけカネを使いたくない。そんな理由で、那覇の与儀公園で野宿をしていた。その方法は知り合った旅行者に教えてもらった。商店が閉店すると、商店街の隅につぶした段ボールが積んであり、それを何枚かいただいて、与儀公園に向かう。何かの施設の軒下に段ボールを敷いてベッドにして、寝転んだ。

 翌朝、目を覚ますと、その施設の職員らしき男が近づいてきた。怒られる。長々と説教されるのは嫌だなと思った。職員は静かな口調で、「ここで寝てもいいけど、ゴミは片付けてね。火にも気を付けて」と言って去っていった。いまでも、あれが沖縄のやさしさだったという気がする。

 「こんなことをしてちゃいけない」と反省した。節約しか考えていない日々はばからしい。早々に沖縄を退却し、与論島の掘っ立て小屋のような宿に泊まり、与論高校の工事作業員になり、しばらく稼いで、また沖縄に戻り、沖縄本島の南をちょっと旅した。沖縄のあとは、九州をちょっと旅した。

 その年の7月に、横浜からソビエト船に乗り、シベリア鉄道経由ヨーロッパへの旅に出た。

 前回のコラムで沖縄のことを書いていたら、初めて沖縄に行った時のことを思い出して、こんな話を書いてみたくなった。いつのことだったか覚えていないが、沖縄でサトウキビの収穫作業をすれば、宿と飯がついてきて、おまけにカネも稼げるという話を聞き、どこかの島の役場に電話したら、「もう収穫作業は終わりまして・・・」という返事で、沖縄での生活体験はできなかった。サトウキビ刈りといえば、キューバでサトウキビ刈りボランティアというのが昔あったことを思い出した。参加者には、後の朝日新聞記者伊藤千尋や音楽評論家中村とうようなどがいた。岡林信康キューバへ出発直前に中止した。ちなみに、1990年のことだが、ヤマザキマリも、キューバへサトウキビ刈りボランティアに出かけている。

 そんなことも思い出した。