昔むかしの能登取材旅行を思い出しながら文章を書いていたら、さまざまな思い出がよみがえり、そのなかに「カメラマン」にまつわる話もいくつかある。
能登ボラ取材とは別の機会に、輪島の朝市取材に行った。撮影前日に打ち合わせたように、夜明け前の暗いうちに宿を出て、市に食材を出すおばあさんの自宅に行き、リヤカーで市に向かう田舎道を同行し、そのおばあちゃんが商売を終えて帰路につく後ろ姿を撮影して、朝市取材を終えた。やっと朝飯が食える。
朝市会場の道路に面して喫茶店があった。カウンターにコーヒーを持ってきた女性が、「あの~」と声をかけてきた。30をちょっと超えたくらいの年齢に見えた。
「お客さん、カメラマンですね。そこから、撮影しているのが見えましたから」と店の大きなガラス窓を指さした。たしかに、その店の前をカメラを手にした私が何度も歩いている。
「ウチの夫も、東京でカメラマンをやっていたんですが、うまくいかなくて・・・、帰ってきてこの店を始めたんです」
「そうですか」という以外の返事しかできない。「どういう撮影をしていたんですか?」という質問はしないほうがいいと思った。
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長野市の旅館だった。宿泊の手続きをして、従業員のおばちゃんが部屋に案内してくれた。お茶を出してくれたあと、「うちの息子も、そういうバッグを持って、東京でカメラマンをやっているんです。取材途中にウチに寄るときも、そういうバッグを下げているんですよ」
そのときは、やや長い取材だったので、カメラ2台に大きなストロボ、フィルムを50本くらいを、ジュラルミンのケースに入れていた。こういう金属ケースはカメラの保護にはいいが、近くにいる人や物を傷つけることがあるので、注意を要する。とくに、子供の頭を直撃することがある。
「カメラマンの仕事って、大変でしょ」と、言った。おそらく、その息子と私は同じくらいの年齢だろう。東京で働く息子の苦労を想像しているのだろう。「私、カメラマンじゃなくで、ライターで・・・」などという詳細の説明はいらないので、ただ「はい、そうですね」とだけ答えた。
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駅からタクシーに乗って、重要文化財の撮影に行った。山梨だったような気がする。「写っていればいい」という程度の写真でいいということで、そのままタクシーには待っていてもらい、15分ほどで撮影を終えた。駅に戻る車中で、30代をちょっと超えたくらいの運転手が言った。
「私も、東京で写真の仕事をしていたことがあるんですよ。写真学校を出た後、スタジオに就職しましてね、昼夜働きづめの毎日で・・・。「自分の写真を撮る時間なんかないじゃないか」と思ったんですが、「じゃあ、お前はどんな写真を撮りたいんだ」って考えたら何にもなくて、スタジオを辞めました。そのあと、アルバイトをしばらくやっていたんですが、東京の生活はおもしろくもなくて、こっちに帰ってきてタクシーですよ」
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小さな寺の写真を撮っていると、30歳前後くらいの男が近づいてきて、「雑誌かなんかのお仕事ですか」と聞いた。寺の人ではないらしい。文句を言われるかもしれないと警戒しながら「はい」と答えると、「あっちの、裏手の方がちょっといい景色ですよ」と裏手を指さしながら言った。秋の九州だったような気がする。
「私も、ちょっと前まで、そうやってカメラバッグを肩にして、撮影旅行をしていたんですよ、東京でね。なんとか生きていけるという程度の収入はあったんですが、オヤジが倒れて、この街の写真館のあとを継いだというわけです。こんな田舎町の写真の仕事は、幼稚園や小学校の行事や旅行の写真撮影くらいで、それはそれで楽しい仕事なんですが・・・、あっ、すいません。お仕事の邪魔をして。なんか、ちょっとなつかしくなって・・・」
私がライターを続けてこられたのは奇跡に近い。