◆肉
肉を食べる機会と食べる量は,過去に比べて確実に増えている。それは好みの問題というより、収入がいくらか増え、肉の値段が大幅に安くなったからだ。
アジアの本を専門に出している出版社めこんの社主である桑原さんは、1960年代末に、青年海外協力隊の隊員としてラオスに滞在していた。あのころのラオスはアメリカの援助金が大量に入っていた時代で、旅行者相手に西洋式の食事も出していた。「牛肉の塊を食った最初の体験は、ビエンチャンだね」というから思わず大笑いしたのだが、考えてみれば、私が牛肉の塊を最初に口にしたのは、1974年のカルカッタのイスラム食堂だったから大差ない。「インド人は牛肉を食べない。牛は神の使いだからだ」と書く人は多いが、イスラム教徒は牛肉を食べる。ネパールでは水牛の肉を何度か食べた。
少年時代あまり肉を食べなかったのは、嗜好のせいではなく金額の問題だ。奈良の山奥にいたときは、たった1軒の食料品店で牛肉の細切れを買った。乏しい記憶では「ブタ小間」は売っていなかったような気がする。おそらく100グラムくらい買っただけだろう。関東に引っ越してきて、牛肉はたぶんほとんど食べていない。ブタ小間100グラムが35円か45円していた。100グラムあれば、炒め物に入れて家族で食べられた。牛肉は父が嫌いでしかも高いから、ほとんど食べていない。1960年代を振り返って、私の肉類消費量はひと月に100グラムくらいだったろうか。私の世代に共通するのは、「クジラは食べていたぞ」ということだろう。ときどき給食には出ていたし、我が家でも「クジラの竜田揚げ」はときどき食卓に表れて、私の好物だった。「肉と言えばクジラ」という時代の少年だ。
ブタだったかウシだったかわからないが、内臓は時々食べた。父は土木建設の仕事をしていて、同僚の朝鮮人労働者たちと、内臓の焼肉と焼酎で宴会を開くことが多かったようで、自宅に彼らを呼ぶこともあったし、家族だけで食べる事もあった。父がどこからか内臓を仕入れ、味噌とニンニクで下味をつけていたのはわかるが、ほかに何を入れたのか知らない。少年時代のごちそうは、クジラの竜田揚げと七輪で焼いた内臓肉だ。考えてみれば、「臭いから」という理由で牛肉を口にしなかった父が、内臓は好んで食べたというわけだ。内臓好きは、私に受け継がれている。
というわけで、経年変化ということなら、クジラを食べなくなり、ブタ、トリ牛肉を多く食べるようになったという変化はある。考えてみれば、数か月に1度くらいは牛肉を食べるようになったのは、吉野家以後かもしれない。ちなみに、吉野家の海外第1号店は1975年のデンバー(コロラド州)店で、私は1980年にチェックしに行った。2号店のロサンゼルス店にも行ったなあ。「牛丼が大好きだった」というよりも、食文化の変容に興味があったからだ。アメリカ人たちがどうやって牛丼を食べるかという観察をした。デンバー店にはカウンターだけの店だった。お茶が有料なのが、やはりアメリカだなあと思ったことなど、いろいろ観察した。