1780話 経年変化 その11

 

◆茶

  子供の頃は、お茶なんてほとんど飲んでいなかった。「お茶なんか、子供が飲むものじゃない」ということになっていたように思う。今は無理だが、子供の頃は食事中の飲み物はなかった。味噌汁がなければ、水分なしで食事をして、食後にのどの渇きを感じたら、台所に行って水道水をがぶがぶと飲んだ。中学校の昼食を思い出しても、飲み物と共に弁当を食べているヤツなんかいなかった。

 夏は砂糖水や、ぜいたくな飲み物としてカルピスがあった。冬はココアを飲んだかもしれないが、年に数回くらいだ。のどが渇けば、春夏秋冬いつでも水道の水を飲んだ。

 20歳を超えてからだろうが、たまに日本茶を飲んだ。大人のマネだ。長年緑茶(番茶、煎茶)を飲んでいたのだが、数年前にふとしたことでほうじ茶を飲んでみたくなり、夏の麦茶・冬のほうじ茶という組み合わせが緑茶に加わった。玄米茶はずっと苦手だ。抹茶はあまり好きではない。

 初めて中国茶を飲んだのがいつか思い出せないが、ジャスミン茶の初体験は覚えている。銀座でコック見習いとなった初日、店でいろいろな雑務をこなしてくれるおばちゃんが、従業員全員にお茶を入れてくれることになっているらしく、私の元にもコップに注がれたお茶が届いた。そのお茶を飲んで、「なんだ、このまずいものは!」と思った。私は匂いがきついものが苦手なのだ。こんなまずいものは飲みたくないから、明日は自宅から緑茶の茶葉を持って来ようと考えたのだが、茶葉を持ってくるのを忘れていて、数日で店のジャスミン茶をおいしく飲むようになった。

 おいしい烏龍茶を初めて飲んだときのことははっきり覚えている。仕事を終えて、同僚のコックのアパートに遊びに行くと、同居している男が台湾旅行から帰ったところだと言った。台湾で、うまい烏龍茶を買って帰ろうと思ったが、その辺の店で売っているお茶だとつまらないので、台中だったか台南だったかで、タクシーの運転手に「おいしい烏龍茶を売っているところに連れて行ってくれ」と頼んだら、山の中に案内され、そこは茶農家だった。その家で、一杯の烏龍茶を出してくれた。とんでもなく、うまい。こんなにうまい烏龍茶を飲んだことがない。買って帰ろうと、値段を聞いたら、ひと缶1万円。とんでもなく高いが、ここまで来て買わずに帰ることができなくなって、しかたなく買ったんだと言いながら、アパートでそのお茶を飲ませてくれた。緑豆のように丸く、緑だ。それまで知っていた黒い茶葉ではない。芳醇という言葉が浮かぶほど、うまかった。のちに、それが「凍頂烏龍茶」というものだと知った。

 「気に入ったなら、半分持っていく?」と彼は聞いたが、お茶に5000円も払う財力はなく、「いや、いや・・・」と笑ってごまかした。

 それ以後、私も彼も、台湾でうまい烏龍茶を探したが、あれほどうまい烏龍茶は見つからない。1970年代のあのときに彼が買ったのは、多分半斤(300グラム)だから、100グラム3300円ということになる。貧乏コックには、そんなに高い烏龍茶は買えない。現在ではその程度の値段の烏龍茶は普通に売っていて格別高価というわけではない。いまでは「それほど安くはない」烏龍茶を常備している。うまい烏龍茶なら緑の茶葉、がぶ飲みするなら黒い烏龍茶と分けて飲んでいる。ジャスミン茶も時々買っている。

 ハーブティーは、ジャスミン茶以外飲む気がなかった。「自宅の庭で栽培しているハーブを摘んで、毎日お茶にしています」というような、「環境を考えるいかにもロハス主婦」という感じが、「フン!」とか「チェ!」という印象で、「おーいやだいやだ」と思っていたから手を出さなかった。私は「おしゃれなモノ」や「流行のモノ」が嫌いなのだ。

 それなのに、ハーブティーに手を出すようになったのは、2019年のバルト三国の旅がきっかけだ。宿の台所には、インスタントコーヒーの瓶と箱入りの紅茶が置いてあり、「ご自由にお楽しみください」というメモ書きが貼ってあった。紅茶の箱をよく見ると、いわゆる紅茶は4分に1くらいで、ほかはハーブティーだった。「物は試し」と飲んでみたら、強い香りはなく、「飲める」。以後、旅行者とおしゃべりする夜に飲むには、ハーブティーがぴったりだった。

 帰国するときに、スーパーでハーブティーを探すと、安い。宿の客にタダで出すわけだ。ありがたくなって、まとめ買いした。日本で毎日ハーブティーを飲むようになり、ひと月近くで在庫がなくなった。そこで、生まれて初めて日本のスーパーでハーブティーを探すと、もちろん置いているが、私の予想を超えてとんでもなく高い。KALDI業務スーパーで探して買ったが、これらはすべて私の好みに合わない。香りが強すぎるのだ。というわけで、私の中のハーブティーの流行は終わった。