1789話 経年変化 その20(最終回)

 

◆服装 その3

 1990年代の私の生活サイクルは、10月に入り少し涼しさを感じるようになるとタイに移動して、翌年タイが酷暑の4月に入る前に日本に戻っていた。1年のうち10か月は夏で、あとは春と秋という生活だった。

 90年代末に、そういう生活サイクルをやめて、日本で生活するようになると、まず靴下がほとんどないことに気がついた。1年のほとんどをサンダルで過ごしてきたから、靴下に穴があれば捨てるだけで買い足さなかった。10年ほど前に買ってすでによれよれになった靴下が3足あるだけで、カカトの部分はかなり薄い。すぐさま、2足一組の靴下を3セット買った。

 冬服は、サイズが合わなくなったものが多く、処分した。日本の寒さがどうにもつらく、フリースだ中綿だ、そしてダウンのジャンパーやコートなど、「暖かそう」と見ればすぐに買った。そういうわけで、熱帯アジアでオーダーメイドしたシャツと、あわてて買い込んだ冬服とで、部屋の収納部分はいっぱいになった。

 それから長い時間が過ぎてからだが、ユニクロヒートテックを出せばすぐに買い、「ヒートテック 極暖」が出ればすぐに買い、「超極暖」が出れば、これもすぐに2着買い、冬の服装は万全となった。

 タイで買ったTシャツは、異様に厚手のトゥクトゥク柄のものを除いてすべて現役を終え、ぼろ布としての生涯も終えた。オーダーメイドのシャツ群は、ボタンホールがゆるゆるになったり、サイズがきつくなったものもある。買った生地はデザインや織り方が魅力的で、なかでもミャンマーで作ったシャツは、生地が手織りだから貴重だ。手が込んだバティックのシャツも持っているが、スーパーの買い物に着ていく気もせず、外出する機会のない今は、タンスで眠っている。

 冬の上着を何着も買い込んだものの、日常着ているのはカーキ色のジャンパーだ。これは父が死ぬ数年前に近所の洋品店で買ったものだ。父の形見といった意識などまったくなかったが、着てみれば軽くて着やすい。私が買った比較的高額だったジャンパーは裏地がないので着脱が不快だが、父が買った安物のジャンパーは着やすく、毎年冬になると着るようになり、なんと34年が過ぎた。父がこのジャンパーを買った時の年齢はとうに過ぎ、父が死んだときの年齢も過ぎ、ジャンパーは袖口がちょっとほつれてきただけで、冬の日常着としては今もベストだ。

 Gパンは何本か持っているが、最近は「伸縮にすぐれた」ユニクロ製品を愛用している。かつてはゴワゴワと厚手のGパンが好きだったのだが、一度ユニクロ製品を履くと、もう離せなくなる。

 靴の話もしておこうか。子供の頃に履いていたのは、「ズック靴」であり「運動靴」だった。中高校生になると、「バスケットシューズ」とか「テニスシューズ」と呼ばれる靴を履いていた。1970年代に入り、「ジョギングシューズ」なるものが売られるようになった。私はまだ「スニーカー」というものを知らなかった。ホセ・フェリシアーノが歌う” Hi-Heel Sneakers”の意味がわからず、辞書を調べても” Sneakers”の意味がわからなかった(この歌のオリジナルは1964年のTommy Tucker)。1970年代はそういう時代で、70年代後半に、一部のスポーツファンの間では、「スニーカー」と呼ばれる靴があることが知られ、70年代末ころからスニーカーブームが始まるのだが、もちろん私はそういう流行の枠外にいる。

 日本では、布靴の時代の後、革のジョギングシューズのようなものを履いていたが、旅行中はずっとサンダルを愛用してきた。ここ10年ほどヨーロッパに行くことが多くなり、気候の点でも、石畳の道という事情もあり、履きやすい靴を探したら、「ウォーキングシューズ」というものを見つけた。老人用の散歩靴なのだが、クッションなど履きやすさはベストで、合皮製は好きではないのだが、「履きやすさのためなら、それでも良し」となって現在に至る。美観の点では本革製がいいので買ったことはあるのだが、履き心地は軽い合皮の方がいい。そして、旅では酷使してきたのに驚くほど丈夫だ。

 経年変化の話は、今回で終わる。次回からは、別の話で。