1994話 論文と読書ノート

 

 京都大学人文科学研究所は、その前身となる東方文化学院京都研究所から考えると、そろそろ100年の歴史になる。そこに姿を見せた歴代の研究者たちの姿を描いた『京大人文研』(斎藤清明、創隆社、1986)を読んでいたら、こんな一節があった。時代はおそらく1940年末だろうと思われる。理学部の講師だが、人文研の研究員だった今西錦司が学術誌の合評会に出席した時のことだ。俎上にあがった論文は、京大の重松俊明教授が書いた「身分社会の基礎理論」だった。この論文に対して、今西講師は当の教授にこう言った。

 「これは学術論文ですか、それとも単なる報告なんですか。○○がこういうとる、××によるとこうだ、などと、そんな他人の説ばかりひいてきているのを、ボクらはペーパー(論文)とはいわへんのですけど」

 これに似た話は、石毛直道さんからうかがったことがある。梅棹(忠夫)さんと、「引用のない論文を書けないものか」などと話し合ったことがあるという。今西の教え子が梅棹であり、その教え子が石毛さんだ。

 お前が偉そうに言うなという批判は百も承知で言うが、今西・梅棹らの考えを知るずっと前から、1990年代に学術論文集を読んで私も同じような感想だった。それは十数人が書いた論文が集められている本なのだが、講師や助教授の手によるものは、「論文」ではなく「読書ノート」と呼ぶにふさわしいものだった。欧米の学者たちの名前をあげ、「すでに○○が書いているように・・・」という文章の羅列なのだ。有名な学者の論文を取り上げ、「私、ちゃんと勉強していますよ」と胸をはっている。引用しているフランス語やドイツ語の論文に「拙訳」とすれば、自慢を倍増できる。他人の論文を読んだというだけでは論文ではないと、私も思った。

 「過去の文献紹介」がその論文の目的なら、それは研究史としては意味ある論文になるだろうが、読んだ論文の一部を引用しているだけでは論文にはならず、しかも引用する意味があるかどうかではなく、有名な学者の名前を出しておけば、黄門様の印籠になると思ったのだろうと想像できる。

 今西・梅棹・石毛ラインは、そういうハッタリとこけおどしの論文を嫌った。「だからね」と関西のある教授が言った。「梅棹・石毛ラインの学者が書いた論文は、東京では低く見られていいるんです」。権威筋を引き立てないと、評価は低いのだ。

 かつて観光学の「論文」と称するものに出会って気がついたのは、どれもブーアスティン、フーコー、アーリの引用で行数を稼ぎ、まだ足りないとブルーナーやマキャーネルの引用をして完了というものが多かった。バックパッカー研究ならコーエンが加わる。それが博士たちの書く「論文」と称するものだと知って、以後観光学論文は読まなくなった。ちなみに、たいした意味もなく有名学者の名前を並べた論文を、鹿島茂は「暴力団に知り合いがいる」というようなものだと書いた。つまり、チンピラが「○○組の××さんに世話になっている者だが・・」とハッタリをかますようなものだという意味だ。

 以上の話の断片は、すでにこのアジア雑語林285話でしている。付記として紹介しておく。