1805話 若者に好かれなくてもいい その5

 

 高田純次が、若者に嫌われないようにする注意点としてあげた「説教をしない」ということも、「説教」の内容や、受け手の意識の問題があるように思う。

 「怒られる」と「しかられる」は、違う。怒りを表に出したのが「怒る」だが、「しかる」は注意であったり指導であったり、小言であったりする。その昔、親父にしかられて、「うるせーな!」と思ったバカ息子も、親の年齢になると、「あの時は、ありがたかった」となるかもしれない。そういう違いがある。注意やアドバイスや教示などもすべて「うるせー説教だ」と感じるかどうかは、受け手の感情と思慮による。

 旅行を例にしてみる。地球のあちこちを気ままに旅行している若者が、ある国で父親くらいの年齢の企業駐在員とたまたま出会ったとする。駐在員は、「いつまでもフラフラしているんじゃない。ちゃんとした仕事を探してまともに働きなさい。人生を甘く見ちゃいけない」などと言えば、若者は「うるせー説教だな」と感じるだろう。私が20代の若者なら、同じように感じるだろう。

 その国で、若き旅行者は盗難事件に会い、全財産を失ったとする。あるいは重病で宿から動けない状態だったとする。駐在員が別れ際に「何か困ったことがあったら、連絡しなさい」といって渡された名刺の電話番号に電話して、若者は「助けてください」と電話するかもしれない。駐在員が若き旅行者に「もの言えば唇寒し・・・」と無言のままなら、人間関係に波風は立たない。若き旅行者に煙たがられない。その方が楽だが、その方がいいのか。順風満帆の旅ならば、「風に吹かれるように自由気ままに・・」と思っていても、何かの災難に合えば、「うるせー説教しやがって」と思っていた「正しく生きている」親や友人知人に頼ることになる。「自由気ままに生きる」とはいっても、困難に出会うと、毎日地道に働いている人に助けてもらわないとどうにもならないことがある。ライターなどという、この世になくても何の問題もない仕事で生きてきた者は、コツコツ毎日きちんと働いている人たちが作り上げた世の中の、「お余り」で生存していることを自覚しているのだ。

 旅行をしていると、この男にはひとこと言ってやった方がいいかなと思うようなことがある。不注意きまわりない旅行者は確実にいる。日本人何人かといっしょに日本国内にいるのと同じ気分で旅していて、緊張感がない。例えば、駅や食堂で、荷物を置いたままそろってトイレに行ってしまう。支払いは、胸ポケットに入れている現金の束を取り出している。ズボンの尻ポケットに長財布を刺している。店を出て、お釣りの札を歩きながら路上で数える。シャツの胸ポケットに入れているパスポートが透けて見える。しゃがんだら、ポケットからパスポートが落ちるかもしれない。

 そういう旅行者を見かけると、「ちょっと」と声をかけようかと思うこともあるが、実際には「困るのはアンタだ」と冷たく突き放している。注意を口にしたことはない。だから、「説教かよ」と居直られることもない。上に挙げた例は、「たとえ話だろう」と思う人がいるかもしれないが、いずれも私が実際に見た光景だ。

 この話、長くなりそうなので、次回に続く。