1807話 若者に好かれなくてもいい その7

 

 説教とは違うが、助言、英語ならアドバイスか。注意、指摘など善意によるものでも、受け手には「粗さがし」「重箱の隅をつつく」「バカにして・・・」「偉そうに・・」「上から目線で・・」などと受け取る人がいる。

 知り合いの大学教授が書いた本を読んでいたら、とんでもない間違いが何か所かあり、メールで正誤表のようなものを送った。すぐさま怒りの返信がきた。大学教授が書いた専門分野の本に関して、コック上がりの素人が言いがかりをつけやがって・・・という感情なのだろうが、私の指摘が当たっていることは認めざるを得ないようで、だから屁理屈ばかりの居直りの返信だった。

 私がメールを送らなければ、人間関係に波風は立たないが、でたらめを書いている本は訂正されることなく世間の目に触れる。その方がよかったのか。

 知り合いの教授たちに、他人が書いた論文の間違いを指摘することはあるのかと聞いたことがある。考え方の違いではなく、明らかな事実誤認とか、「引用している文献にその1節はない。別の文献じゃないのか」とか、人名地名書名などの誤記などは、「よほど親しい研究者なら指摘することはあるが、たいていは黙っているね」ということだった。その意見がどれほど普遍的かは知らないが、「黙殺」が常識らしい。雑誌などで書評する場合は、ほめるのが原則だから、問題のある論文の批評はそもそも引き受けないが、義理で引き受けた場合は、波風立たない「大人の文章」を書くのだろう。批判は、「ウチウチではよく言うよ、『あれはひどいよ』などと仲間内で笑ったりするよ。だけど表だってはほとんほしない」と知り合いの学者たちはいう。学者の世界は狭い業界なので、研究者それぞれに先輩後輩とか、師匠筋とか、今後の就職の伝手など複雑な人間関係がある。部外者の私のように、平気で何でも書くという狼藉は犯されないのだ。

 このブログのような文章は印刷物と違って、編集者に読まれることなく公開される。だから、キーボードのミスタッチのほか、誤字脱字誤りが多いのだが、幸い私のブログの場合は、校正してくださる読者がいる。なかでもプロの編集者であるクラマエ師には毎度お世話になっている。私は数字に無頓着で、ブログの通算話数をよく間違えた。例えば1578話の次が1758話になっていたりする。編集者は文章の誤りを見つけるプロだから、指摘してもらえるのはありがたいことだ。私は自分の文章に絶対的な自信などないし、失うことを恐れる権威も威厳も地位もないから、校正してもらって怒るということはもちろんない。

 蔵前さんに校正してもらった語の記憶は数多くある。よく覚えているのは、このブログである人物を「享年54歳」と書いたら、「享年には歳はつけません。享年54です」とメールにあった。あれ、歳がついている文章を読んだことがあるがなあと『広辞苑』を調べると、「歳」がついている。いろいろ調べてみると、享年は数えの年齢で書き、満年齢の時は行年(ぎょうねん、こうねん)を使うという解説があり、だから満年齢には「歳」はつけないのかと思っていたら、別の解説もある。昔から享年に「歳」をつけていた例もあるとか、解説もいろいろある。つまり、正解は「いろいろな説がある」ということらしい。

 誤解のないように書いておくが、「蔵前さんが間違った指摘をした」と言いたいのではまったくない。指摘をしてくれたおかげでいろいろ調べる結果になり、少し物知りになったと感謝しているのだ。ブログを書いている人は皆同じだろうが、読んでくれる人がいるというだけでもうれしい(驚いたぜ、うれしいが「売れしい」と変換された! 逐語変換でもこうだと書こうとして、「筑後返還」だ。大丈夫か、このワード))のだ。ましてや、コメントをくれる人は、なおさらありがたい。見当違いの匿名コメントもあるけどね。

 今回で最終回にしようと思ったが、もう1話書くことにした。次回もお楽しみに。