1821話 キンパ

 

 韓国の言葉や食べ物などのエッセイを多く書いている八田靖史さんが、「もう『キンパ』はあきらめた」といった内容のエッセイを書いていた。出典は、失念。

 韓国ののり巻きは日本から伝わったもので、昔は日本語そのままに「のりまき」と呼ばれていたが、のちに韓国語の名前を付けて「キムパップ」とした。キムは「海苔」、パップは「飯」の意味で、直訳すれば「海苔飯」となる。ローマ字表記すればkimpapで、ウィキペディアでは「キムパプ」を見出し語にしている。

 韓国式のり巻きが日本人にもよく知られるようになると、「キムパ」、そして「キンパ」と書かれ、呼ばれるようになった。韓国語を教えている八田さんとしては、飯は「パ」ではなく「パップ」なのだといくら説明しても「キンパ」の名で広まり、「キムパップが正しい」といくら言っても「キンパ」が使われて、もうお手上げだと敗北宣言したのが、八田氏のエッセイだ。

 世間でよく知られている川柳に、「ギョエテとは俺のことかとゲーテ言い」というのがある。Goetheに「ゲョエテ」、「ギョエテ」、「ギョーツ」など数多くあったらしい。ラフカディオ・ハーンは出雲では「ヘルン」であり、ローマ字表記の「ヘボン式」のヘボンとは「ヘップバーン」の日本語訛りだといった例はいくらでもある。最初にどうカタカナ表記するかが重要で、しかし、どう工夫して表記を決めても、日本人の発音しやすいように変化するという現実もある。

 どの外国語かに限らず、その発音をカタカナ表記するのに苦労するのだが、ことに語尾の子音をどうするかという問題だ。私は1980年代からタイのことを書くことが多くなったのだが、タイ語のカタカナ表記に苦労した。料理用語も芸能用語や人名など、私が最初にカタカナ表をすると、のちにそのまま広まる可能性もある。

 タイ語で「炒める」は、ローマ字表記をすればPhatなのだが、1990年代だと、そのカタカナ表記は次のようなものだった。

 パット

 パッ

 パ

 パッ(ト)

 私は「パット」と書いていたが、決して多数派ではなかった。「聞いたままを書く」という人は、語尾のtを無視していた。「聞こえない」ということは「発音しない」と説明している人もいた。発音しないなら、語尾がtでも、kでも、pでも同じ発音になるはずだが、そうはならない。”t”を、日本人のように”to”と発音しないのであって、「”t”がなくても同じ」ではない。

 韓国料理キムパップが、日本で広まるにつれて「キンパ」になってしまうのと同じように、タイ料理ではカーオパット(炒飯)を「カオパ」、バジル入り炒めの「パット・バイカプラオ」が「ガパオ」になってしまった。フランス料理の「côtelette」(コートレット)が、「カツレツ」になったのだから、文句を言っても始まらない。なるようになると思うしかない。

 「地球の歩き方」など、海外ガイドブックでは、初めてカタカナ表記される地名人名や料理名などが多くあるだろう。言語監修者がいるようだが、大変な作業だ。「どう表記するか」は人それぞれという部分が多く、私の体験では、言語学者など、ある地域の専門家ほど、言語の発音にこだわって、おかしな表記をする例が少なくない。例えば、キムチはkimchiと、mに母音がないからと、ムを小さな文字で表記した人がいた。「キ(ム)チ」という表記もあった。同じく韓国語ではある姓を「クォン」と表記する人がいるが、日本人には「クオン」か「コン」としか発音できない。発音できなカタカナ表記は、意味がない。「ヴ」も、日本人には発音できないのだから使うなという話は、すでに何度か書いた。