1827話 時代の記憶 その2 電気 下

 

 電球に次いで、我が家の電気製品となったのは、多分、父親の手製のラジオだったかもしれない。父は電気や機械の専門家で、それは仕事であると同時に趣味でもあり、材料を寄せ集めてラジオを組み立てたのだと思う。私はその世界に疎いのだが、当時はラジオの組み立てはよくある趣味で、小中学生でもやる者がいて、そういう少年はのちに無線(ハム)青年やオーディオ・マニアへと進化していった。

 ラジオの後にウチに来た家電は、テレビだったか洗濯機だったか順序は覚えていない。時代は、1950年代末のことだ。1958年のテレビ受信契約者は100万台だったが、翌1959年の皇太子結婚をテレビで見たいという欲望が日本国中に広がり、結婚式直前の契約者は200万台を超えた。父もその波に乗ろうと、無理をしてテレビを買ったようだ。

 何度も書いているように家庭環境によって違いはあるが、1950年代前半までに生まれた者は、自宅にテレビがなかった時代の記憶があり、ラジオを聞いていた思い出がある。私はテレビに関心がなかったとは思えないが、我が家の大事件であるはずの「テレビが来た日」の記憶はない。その理由は、ラジオ少年だったからかもしれない。アメリカのポップスや日本人が歌うその翻訳版を聞いていた。「とんち教室」(1949~1968)をたまに聞いていた。まだ戦争は終わっていないと感じたのは、「尋ね人」の放送はよく覚えているからだ。戦前から戦後までに連絡が取れなくなった人に呼びかける番組だった。アジアの地名がよく出てきたので、印象に残ったようだ。

 1960年以降の生まれだと、「物心がついたときにはすでに、ウチにテレビがあった」となることが多いようだ。のちに外国を旅するようになると、電気が来ていない村で、人々が集まってテレビを見ている光景に驚いたことがある。電気は車のバッテリーだ。ビデオデッキでVHSテープを再生していたのだ。日本では、村に電気が来て、白黒の小さなテレビが家庭に入り、カラーテレビに変わり、ビデオデッキを買い・・・という順序なのだが、この村のように、初めて見るテレビがビデオのカラー映像だった例は珍しくないようだ。

 母が語ったテレビの話。

 「テレビジョンという映像が映る箱があることは、世田谷の兄さんから聞いて知っていたの。兄さんが学んでいた浜松高等工業学校(のちの静岡大学)がテレビの研究をしていたから、日本人のほとんどがまだテレビを知らない時代から、テレビのことは知っていた」

 「ウチにテレビが来た」というエッセイや時代解説は数多いが、幼い3人の子供がいて、毎日忙しく働いている母は、噂に聞いたテレビが自宅にあっても、テレビを見るような時間はほとんどなかったのだと気がついたのは、ずっと後になってからだ。