1829話 時代の記憶 その4 水道

 

 電気も水道もない場所で過ごしたことは、日本では後で話す1例だけあるが、外国では何度も体験している。

 例えば、1974年のバリ島では、電気があるのは中心地デンパサールとバリビーチホテルのような高級ホテルだけで、クタ地区もウブド地区でも、電気も水道もなかった。ホテルがないのだから当然で、わずかな旅行者は民家に泊めてもらっていた。1985年のフィリピンのボラカイ島には安宿はあったが、電気も水道もなかった。電気はないのに冷蔵庫があるのを不思議に思ってたずねてみたら、ガス冷蔵庫だという。プロパンガスで冷却するらしい。今、調べてみたら、自動車搭載用(キャンプ用でもある)のカセットボンベを使う冷蔵庫があることを知ったのだが、えらく高い。

 今でも、アジアやアフリカなら、山間地や離島や貧しい農村なら、電気も水道もない土地はいくらでもあるはずだ。

 1950年代の奈良の村に水道はなかった。いや、学校には水道があったから、水道設備はあったのかもしれないが、もしかして学校も井戸水をポンプで汲み上げていたのか。

私が知る限り、村の平地に住むどの家も井戸水を利用していたはずだ。山中で暮らしている人たちは、沢の水を引き込んでいたのだろうと思う。

 我が家も、物心がついたときには庭に井戸があり、手押しポンプがついていた。炊事の水は、バケツに汲んで台所に運び、たぶん水がめに入れていたのだと思が、あまり記憶がないのは、野菜を洗ったりするのは井戸端だったからだ。風呂の水は、父がトタン板で作った管を手押しポンプから窓越しに風呂桶に伸ばして水を流し込んでいたのを覚えている。

 買ったばかりの洗濯機で使う水はどうしていたのか、まったく記憶がない。バケツに水を汲み、何度も洗濯機に入れるのは大変だから、もしかすると水道設置が我が家に導入されたのと、洗濯機購入は同じ頃だったのかもしれない。

 1960年代に入り、我が家は奈良県から千葉県に引っ越してきたのだが、そこは電気も水道もなかった。これには事情がある。父は分譲地の一角を買って、奈良の家の材木を運んで、知り合いたちと家を作ることに決めたのだが、土地を売った不動産会社は販売直後に倒産し、まだ造成を終えていない土地がそのままになった。電気も水道もない場所で、父が家を作ったのは北海道の黒板家(「北の国から」)よりも早かった。「子供たちが新学期から新しい学校に転校を」と考えたのだろうが、広大な分譲地にポツンと家が建ち始め、周囲は林を更地にしたから、まるで沙漠のようだった。黒板家とは違って、近くに沢などないから、だいぶ離れた農家に頼んで水をもらい、バケツに汲んで天秤棒で家に運んだ。父が市とかけあって電気はまもなく来た。電気は農家の家までは来ていたので、何本もの電柱を立てて、我が家に電気を運んだのだ。水問題はすぐに解決するめどはつかず、井戸を掘った。井戸掘りは安全上の問題もあるので、業者に任せたような気もするが、もしかすると緊急用に父が自分で掘ったかもしれない。この井戸に手押しポンプをつけて使っていたのだが、しばらくすると隣に家が建つことになり、やはり水道もない土地なので、我が家の井戸を掘り下げ、電動ポンプをつけ、家じゅうに水道管の工事をして、晴れて蛇口から水を得る時代に入った。

 「水道のない分譲地」の対策として、もしかして市の補助があったのかもしれないが、分譲地内に大きな井戸を掘り、住民はその水を使うという組合方式となったが、我が家には自前の井戸があるので、組合には入らなかった。

 私が住む地域に県の水道が伸びてきたのは1980年代のなかばか後半だったか。そのころに、プロパンガスから都市ガスに変わった。我が家のある地域が、「電気水道都市ガス完備」と言えるようになったのは、1980年代なかが以降のことだ。東京からそれほど離れていない千葉県の住宅地の、これが実情である。

 

*横道話・・この「時代の記憶」という連載は今年いっぱい続きそうなので、ここでちょっと寄り道話を。「なんか、おもしろい本はないかなあ」と探している旅行好きにお勧めしたいのが、今読んでいる『空と宇宙の食事の歴史物語』だ。予想を大きく上回るおもしろさだ。機内食の写真に説明がついているような本ではなく、機内の食事の歴史を広く深く書いている。冬に旅客がいないスカンジナビア航空は、アメリカからアフリカに飛ぶ客を獲得するために、超豪華機内食をだして、業界から処分を受けた。パンナムの乗務員は、高級ワインを自宅に持ち帰るのが習慣だったという話は有名だから知っていたが、こういう話が満載されている。もっと知りたくて、旅客機関連本を次々に注文しているので、「積んである本」がなかなか読めない。姉妹本に、船や鉄道の旅と食事の本もあるので、そちらもチェックを。