1831話 時代の記憶 その6 乗り物 上

 

 1950年代の通りには、バタバタとうるさい爆音をたてて走りすぎるエンジン付き自転車が走っていた。市販のものだったか自家製だったか知らない。本田宗一郎の例でもわかるように、その当時、町工場製のエンジン付き自転車を作っている零細企業は多くあったらしい。

 くろがねなどの三輪トラックは、1950年代が天下だった。ダイハツ・ミゼットなど、小型の三輪トラックも1950年代から60年代が全盛期だった。ミゼットは1970年代初めまで生産していたようだが、私の近隣に関する限り、もはや見る機会のない自動車だった。ところが、その70年代初めにタイに行って、ミゼットが原型の三輪自動車と出会うのだから、興味深い。1970年代以降に生まれた人だと、バンコクトゥクトゥクを見ても、ミゼットの残像はないだろう。

 1950年代から60年代に、ポピュラー音楽の世界では、外国の歌に日本語の歌詞をつけた翻訳ポップスが流行ったように、自動車の世界でもノックダウン車があった。そういう自動車を知っているのが、私たちの世代だ。

 日野ルノーは、その名の通り、日野自動車がフランスのルノー4CVを日本で組み立てたもので、1954年から1961年まで発売された。乗用車生産の技術を学んだ日野は、1961年から67年まで生産を始めた最初にして最後の乗用車が日野コンテッサで、自動車にあまり興味のない少年だったが、「美しい車だ」と今でも思っている。

 いすゞ・ヒルマンミンクスは、いすゞ自動車がイギリスのルーツ自動車と提携して日本でノックダウン生産をした車で、1953年から67年まで発売された。

 日産オースチン(正確には、日産オースチンA50ケンブリッジ)は、日産とイギリスの自動車会社BMC(ブリティッシュ・モーター・コーポレーション)と提携して生産した車で、1953年から60年まで販売された。この時代の乗用車はトヨペット・クラウンに対抗できる車を作るというのが目標で、日産オースチン生産で得た技術は1959年のブルーバード、60年のセドリック生産へと受け継がれた。

 三菱ジープは、アメリカの自動車会社ウィリスのジープを日本でノックダウン生産したのが始まりで、1953年に生産を開始し、56年に完全国産化が完成し、98年まで生産された。

 考えてみれば、小学生時代の1960年代前半に、上に挙げた4台のうち日野の乗用車を除く3台に乗ったことがある。自動車が大好きな父親が乗っていたからで、その当時父が買っていた「モーターマガジン」などの自動車雑誌を拾い読みしていたせいで、1960年代のヨーロッパ車をいくらか知っているのだが、アメリカの車にはまったく興味を持たなかった。アメリカのテレビドラマ「ルート66」でスポーツカーを見たという記憶はあったが、今調べるまでコルベットだと知らなかった。それよりもびっくりしたのは、このドラマは1962年にNHKで放送したというのだ。てっきり民放だとばっかり思っていたが、民放での再放送をしているから、私が数回見たのはNHKだったかどうか記憶にない。深く記憶に残ったのは自動車ではなく、テーマ音楽だった。1980年にシカゴから西海岸に走るバス旅行をしていた時に、頭の中をこのドラマのテーマソングが流れていた。映像の中の車の記憶という点では、007のアストンマーチントヨタ2000GTの方がはるかに印象が強い。

 その昔、軽免許(軽自動車限定の運転免許証)というものがあり、16歳からとれたのだが、1968年9月に廃止になった。廃止になっても、すでに免許証をとった人は限定解除の試験を受ければ普通免許に変更できた。1968年に16歳だった少年とは、1952年4月生まれの私である。軽免許最後の世代というわけだ。軽免許をとればすぐに普通免許に変わるのだから、父は「すぐに免許をとれ」と言ったのだが、すでに自動車にはまったく興味がなかった。自転車があればいいと思って、現在に至る。