1832話 時代の記憶 その7 乗り物 下

 

 鉄道の話もしたい。

 あれは中学生だったか高校生だったか確かな記憶がないのだが、1960年代後半に、総武線を走る蒸気機関車を見たような気がする。首都圏で暮らしている少年にとって、蒸気機関車はすでに「古き良き時代の乗り物」というイメージだったから、その蒸気機関車が目の前を走っているのに驚いたのだが、あれは妄想だったのか。

 大人になってだいぶたったころ、高校の同窓生にあいまいなその記憶を話すと、「ああそうだよ。蒸気機関車が走っていたよ」と、いとも簡単に言ったので、私の記憶が正しいことがわかった。そこで、今回、蒸気機関車の最期を調べてみたくなった。

 東京発の最期の蒸気機関車は、1969年だった。

 3月に上野発成田行き。7月に両国発館山行き。1969年8月の両国発勝浦行きが、最後の都内発蒸気機関車だった。記念運行は、1970年の東京・新橋間で、ニュース映像に残っている。その当時、日本各地でまだ走っていた蒸気機関車も、1974~75年に次々と運行を終える。ということは、観光用や記念運行などではなく、蒸気機関車が実用運行していた姿を記憶している人は、場所によっては1970年生まれでもありうるということになる。

 蒸気機関車が消えゆく時代に生まれたのが、映画「男はつらいよ」で、シリーズ第1作は1969年に公開された。「男はつらいよ」は、「日本」を記録した映画でもあるという印象があって、蒸気機関車が走っているシーンを覚えていたのだが、さすが鉄道マニアは、「寅さん50年」映画に登場した鉄道名場面の数々」という記録を残している。

 私が初めて蒸気機関車に乗ったという記憶があるのは、幼稚園児だったころに、母が3人の子供を連れて奈良の山奥から大旅行を決行した時だ。東京や神奈川や静岡に住んでいる母方の親戚の家を泊まり歩く旅だった。決して豊かな暮らしをしていたわけでもないのに、3人の子供を連れての大旅行を企てた理由を、「奈良の村の外の世界を見せたかったから」と母は言った。村で生まれ育った人たちはそんなことは考えないだろうが、3人の子供は皆東京生まれだという過去があり、親戚が首都圏に住んでいるという利点もあるのだが、久しぶりに東京や横浜を歩いてみたいという願望も、母にあったのではないかとも思う。

 その大旅行は1950年代のことだから、もちろん東海道新幹線はまだないが、東海道線は電車だが、奈良の田舎から大阪までは蒸気機関車だったはずだ。往路は東京まで直行したが、復路は東京から神奈川や静岡を転々とした時だと思うが、「トンネルにさしかかったら、煙が車内に入らないように窓を閉める」という習慣があることを、その時に知った。

 その旅行をしたときは、我が家はこのまま奈良の山奥で暮らすのだろうと母は思っていたのだろうが、数年後に千葉に引っ越すことになり、再び蒸気機関車で大阪に向かった。

 路面電車が走る街が好きで、国内でも外国でも、路面電車を見つけたら用もないのに乗りたくなるタチなのに、なぜか都電に乗った記憶がない。都電は1960年代から順次廃止され、72年に早稲田・三ノ輪線を除いて廃止された。1960年代後半から東京を散歩していたから、乗った記憶はなくても見たことはあるはずなのだが、記憶がない。新宿をうろつき始めたときが、新宿から都電が消えた1970年で、私が見たのは線路を撤去したばかりの廃線跡だった。「ガキはこのあたりをうろつくんじゃないぞ!」と言われそうな、おそろしい風景だった。そこは、のちに新宿遊歩道公園・四季の路となった。

 

 国産旅客機YS11は、2000年代に入っても鹿児島を飛んでいたくらい長期運行していたので、私も取材で乗ったような気がするのだが、どこで乗ったかという記憶がない。

 

皆様には関係のない話だが、今回のコラムをコピペしてブログに移そうとしていて、なぜか原稿がすべて消えた。私の能力では戻せないので、最初からまた書いた。ああ、デジタルは便利だが不便だ。