1834話 時代の記憶 その9 給食

 

 戦後期の学校給食は、1950年代に全国で始まるのだが、地域差がかなりあり、「全国各地の学校で給食が始まった」というわけではない。1950年代末の、奈良県の村立小学校にも給食があったが、食いしん坊のくせに詳細を覚えていない。姉が小学生だった時代に給食が始まったそうだが、準備不足だったのか、脱脂粉乳コッペパンだけの給食が1年続いたという。住民からは「おかずがない」という批判よりも、「パンが飯になるか!」だったという。

 奈良の山奥から、千葉県でも東京通勤圏である地域に引っ越してきたのだが、そこの小学校に給食はなかった。奈良の村立小学校で、「まあ、そこそこ」程度の成績だった児童は、千葉の純農村地域にある小学校で、開校以来の超優秀児童になった。奈良の小学校でやったことを、千葉の小学校でまた同じことをやるのだから、成績優秀になるのは当たり前だ。授業のレベルが1年遅れていたのだ。その地域にある中学校では、高校に進学する女子生徒はほんの数人という時代だ。奈良のあの村では青年教育なども含めて、教育熱心な村人に支えられていた理由のひとつは、村には職があまりなく、教育こそが将来を約束するという考えが強かったかららしい。

 地元千葉のこういう小学校にいては、グータラ息子はもっと怠け者になると思った母は、都市部の小学校に転向させた。サラリーマン家庭の子供がほとんどの小学校では、また「まあ、そこそこの成績」の児童にも戻った。その小学校には給食があった。コッペパン脱脂粉乳、おかずにクジラ肉料理があったというのが、私の世代の給食だ。

 私と同世代の人たちは、脱脂粉乳がいかにまずかったかを語るのがお約束になっている。私も「うまい」とは思わなかったが、「まずくて飲めない」というほどではない。脱脂粉乳もおかずもパンも、残したことは一度もない。それは、「腹減らしの子」であったことと、「嫌いなら、タマゴ焼きでも作ってやろうか」などと言ってくれるおばあちゃんなどいなかったからであり、正しく食事をするというしつけを受けたからであり、いつも腹を減らしている健康な子供だったからでもある。

 給食は残さず食べたが、「あれはうまかった」という記憶に残る料理はない。腹が減っているから全部食べただけのことで、うまいから食ったというわけではない。今、「あまりうまいとは思わなかった」という理由を考えてみると、給食とか寮の食事とか社員食堂の食事のように、食べたいものを自分で選べず、最大公約数的料理と味付けの食事が好きではないからであり、どうやら陶磁器以外の食器で食事をするのが好きではないということもありそうだ。

 おでんとパンとミルクといったメチャクチャな献立にも不満があった。1954年の「学校給食法施行規則」で、完全給食はミルクが必須となっているから、どんな料理にもミルクがつく。

 アメリカからの援助物資として始まった脱脂粉乳は1964年から牛乳との混合乳になり、1966年ころから「牛乳100%」になることで、アルマイトカップに入れていたミルクが、テトラパックに変わっていき、1980年以降四角い紙パックへと変わっていく。

 この時代に給食がない中学の生徒になっている私は、紙パック時代を知らない。関東だけらしいが、1965年以降に使われるようになったというソフト麺なるものを知らない。米飯給食が始まるのは1976年以降だから、当然、私は知らない。米飯の出現で、コッペパンは姿を消した。

 米飯給食事情を調べると、「子供や親たちが米飯を強く望んだ結果」などと書いている資料が多いが、そういう情報の出どころは、農水省や関連団体によるもので、「コメが余って困っているから」などと農業政策の問題点は、口が腐っても言わない。