1837話 時代の記憶 その12 服 下

 

 このアジア雑語林446話に、鶴見良行の座談・対談集『歩きながら考える』(太田出版、2005)を読んで、こういうことを書いている。

 

 この対談・座談会集でもっとも古いものは、1972年の加藤祐三との対談「歩きながらアジアを考える」だ。そのなかの加藤の発言に、頭の中の電球が点った。

「服飾雑誌『装苑』、必ず英文と中国文と両方で説明がついて、本屋にある。これは日本で唯一国際性を持った商業ジャーナリストですね」

 そうだった。香港や東南アジアの本屋に行くと、「装苑」やたぶん「ドレスメーキング」も雑誌コーナーに置いてあって、立ち読みしている人もいてびっくりしたことがある。洋裁雑誌は、日本語の文章が読めなくても、型紙があれば、服が作れたから、利用価値のある雑誌だったというわけだ。日本以外のアジアで、既製服が普通の存在になるのは、GパンやTシャツが普及する70年代以降だろう。

 

 母がたまに雑誌を買った理由は、付録の型紙目当てだった。新聞紙を広げて、型紙を作っている母の姿を覚えている。「装苑」などを買っていたのは、家族に作る服の型紙が欲しい主婦ではなく、プロかセミプロだったかもしれない。

 豊かでもないウチにミシンがあった理由は、知っている。大日本帝国陸軍兵士であった父が中国から復員して、住所不定無職になった。戦友の伝手で建設会社に職を得る前のしばらくの間、ミシンのセールスをやっていたようだ。機械は専門家だからミシンの仕組みは容易に理解し、私と違って器用だから、ミシンの使い方も修理方法もすぐに習得したようだ。努力の甲斐あってそこそこ売れたようだが、会社は給料を払わないので、現物のミシンを持ってきたという。そのミシンを使って、母が家族の服を作り、さまざまな物を縫った。

 韓国の服事情はどうだったか。アジア経済研究所の『「きもの」と「くらし」』の韓国の章を読むと、こうある。韓国人は男女とも韓服を着る習慣があったので、日本のように家庭で洋服を縫うということにはならず、1960年代になっても、洋服が必要ならオーダーメイドするのが習慣で、70年代に入ると、ソウルならデパートで既製服を買うようになったという。

 タイでも事情は同じようなもので、100年前なら男女とも腰布一枚が衣服のすべてだった。王宮での正装も、男は上半身裸だった。中国系タイ人は、服は家庭で作るかオーダーメイドをするかのどちらかだ。既製服は、デパートが進出してからのことだ。誰でも既製服を買うようになったのは、ジーパンとTシャツが広く売られるようになった1970年代からだ。

 1974年のバリ島で警官と雑談していたら、こんなことを言っていた。「ジーパンを欲しがる若者が多いから、洗濯したら外には干すな。盗まれないように気をつけろ」

 ネパールのカトマンズ洋服屋での会話。

 「ジーパンを売らないか。高く買うぞ」

 「ジッパーが壊れたジーパンならあるけど・・」

 「買うよ。直せばいいんだから。西洋人の服は、でかくて、ネパール人の体格には合わないが、日本人の服なら、そのまま着ることができる」

 翌日、ジッパーが壊れたジーパンを売った。驚くほどの高値だったので、交渉せずにに売った。安宿1週間分くらいの金額だったような気がする。

 日本以外のアジアの地に、ジーパンとTシャツが普及するのは1980年代以降のことだろう。

 

 前回、着物を着ていた女性たちの話を書いたが、たった今思い出したのは映画「男はつらいよ」のおばちゃん(三崎千恵子)は、最後の49作目まで着物姿だったことだ。この映画が始まった1960年代なら、着物姿が特別なものではなかったことがわかる。そういえば、京塚昌子沢村貞子も着物でのドラマ出演が多かったことも思い出す。