今年も、よしなしごとをそこはかとなく書いていきます。読者はさまざまなので、意識して同じ話を繰り返して書いていますが、意識せずに過去に書いたことを忘れてまた書いている事も少なくないのは、あしからず。「時代の記憶」の続きです。
■紙芝居・・・いままで1度だけ、紙芝居を見たことがある。幼稚園の頃、母に連れられて奈良の村から南関東大旅行をした。高円寺のおばさんの家にやっかいになっていた時に、近所の空き地で紙芝居をやっているのを見た。子供は何かを買い、それが紙芝居の入場料のようになるというシステムを知らない田舎の子供は、多分「あっちへ行け」とかなんとか言われて、すごすごと立ち去ったというかすかな記憶がある。紙芝居を知っているのは、幼稚園や学校でやったのを除けば、都会の子供だけだ。
■傷痍軍人の演奏・・・1960年代の末、高校生だった頃、上野の西郷像の近くで、白衣姿の傷痍軍人の演奏風景を見た。戦争で傷を負ったことを示すために白衣を着て、義足が見えるような着方をしていた。そのころすでに、ニセの傷痍軍人がカネをせびっていることが話題になっていたようで、1967年のテレビドラマ「泣いてたまるか ああ無名戦士」(渥美清主演)が作られている。白衣を着て募金を募る白衣募金者に関する資料は多い。日本軍の軍人軍属として働かされても、恩給の対象外とされた朝鮮人たちの問題もある。
■電報配達・・・緊急な用件を伝える電報はすたれたが、祝電などでかろうじて生き残っている。1970年代でも電話はまだ高価で、「電信電話債券」、「電話加入権」、「呼び出し電話」などが歴史的用語になっている。
■タイピスト・・・英文・和文のタイピストは、戦前から女性の数少ない専門職だった。企業からタイピストが消えたのは、パソコンやワープロ専用機が普及する1990年代からだろうか。ちなみに、旅行雑誌「オデッセイ」は、ガリ版印刷で始まり、最期の数冊は和文タイプで作った。タイピストと同じ時代に職を失ったのは、テレックス・オペレーターだろう。これがどういうものか説明するのは面倒なので、自分で調べてください。簡単に言えば、紙テープに穴を打ち込んで、外国との通信を手軽にするというシステムで、海外支店が多くある企業では、時差を考えて24時間体制でテレックス送受信をしていた。この技術を持っていた友人は、荒稼ぎをして、海外旅行を繰り返していた。
1980年前後の新聞社を少し知っている。「電算室」というプレートがついている部屋は、人間には効きすぎるほどの冷房を効かせたコンピューター作業の部屋だという噂だった。インターネットの時代に入りテレックスはほぼ消滅したが、のちに触れるフロッピーディスクと同じように、機密保持のために軍事用としてまだ現役だとウィキペディアの記述にある。
■鋳掛屋(いかけや)・・・穴が開いた鍋などを修理する仕事で、そういう仕事があることは知っていたが、現実に仕事現場を見たのは、1960年代なかごろの団地の中庭だった。それが唯一の目撃体験だ。
■羅宇屋(らうや)・・・キセルの掃除と修繕を担う。私の世代で、東京で羅宇屋を見たという体験のある人は、浅草で同じ人物を目撃したのだろうと思う。
■洗い張り屋・・・着物はめったに洗わないが、洗うとなると糸を全部ほどいて、元の反物にするという母の説明を聞いて驚いた。洗い張り屋という業者は知らないが、1960年代前半まで母がやっていたのを覚えている。奈良で暮らしていた頃は、どこの家でも、洗い張りをしていたのを覚えている。化繊の着物を丸洗いするようになるのは、ずっとのちのことだ。
洗い張りとはどういうものか、一応動画を紹介しておく。簡単に説明すると、着物の糸をほごし、布に戻して洗い、竹ひごの先に針がついた紳子(しんし)で布が縮まないように伸ばして干し、乾いたら元通りの着物に縫う。
母は、板に張り付けて布を干していたという記憶もあり、今回調べてみたら、あの板は「張り板」といい、木綿や化繊などの着物は張り板を使って、縮まないように乾かすそうだ。母も、持っている着物に応じて、洗い張りの仕方を変えていたことがわかる。
洗い張りをした布は、着物に戻さないで布団や座布団にすることもあった。綿屋に頼んで打ち直してもらった綿を使い、母は布団も自分で作っていた。それが、その当時の普通のこととはいえ、やってきた家事の多さに頭が下がると同時に、子供たちは何の手助けもしなかったというアホぶりに、今更なのだが、両親に申し訳ないとつくづく思う。