1856話 将来は?

 

 テレビには当然さまざまな人が登場する。そういう人たちを眺めていて、「もし、今、中学生か高校生だったら、どういう人生を選びたいと思うだろうか」と、フト思った。ヒマつぶしの妄想である。

 妄想ではなく、現実の話からすると、誰も高校生の私に質問はしなかったが、「将来は、どうする?」と、もし質問されたら、 私の回答はきっとこんなものだろう。

 「外国を旅してみたい。映画を見ていたい。月に数回くらい神保町を歩き、リュックに本をつめて帰宅したい」

 大人が子供に聞く「将来は?」という質問は、「将来は、どういう職業に就きたいのか?」という意味だろうが、私は「したいこと」を答えただろうし、高校を卒業して3年後には、その「将来の希望」はすべてかなえていた。

 高校時代、将来の職業のことはまったく考えていなかった。職業のことよりも、したいことの方を考えていた。したいことができる資金が稼げれば、仕事なんかなんでもいいと考えていたから、建設作業員になったのだ。

 妄想の話に戻る。職業に話に限って、考えてみる。

 妄想の中の若い私は、現実の私と同じように、背広を着て働く職業は選ばない。会社員でも役人でも同じように、いやだ。背広ではなく作業着でも、いやだ。たとえその企業が世界的規模の大企業であっても、その工場で作っている物が世界最高レベルの製品だとしても、会社員はいやだ。要するに、組織の一員にはなりたくないのだ。だから、旅行会社も航空会社の社員も選ばない。マスコミへの就職も、たぶん考えない。

 職人に、ひかれる。毎日、コツコツとひとりで作業している姿にあこがれる。現実の私は、そういう作業に不適応だとわかっているから、「才能があるから妄想した」というわけではまったくない。

 流れ作業や共同作業は、嫌だ。塗師(ぬし)のように、分業制の仕事はいやだ。初めから最終工程まで、ひとりでやりたい。「工芸作家」とか「陶芸家」といった偉そうな地位をめざしたいとはまったく思わない。私にその能力があるかどうかということとはまったく別の話だ。私が作った物が、高値で売れて、桐の箱に入れられたまま、どこかの倉庫かコレクターの倉に入ったままになっているのは、おもしろくない。漬け物や煮物を入れて毎日使う生活雑器の方が、作っていて楽しいはずだ。

 物を作るなら、金属製品ではなく、竹や木を加工したものの方が好きだが、テレビやネット動画でついつい見てしまうのは、鍛冶屋だ。農具などの道具を作る過程をじっと眺めている。ハサミでもナイフでもいい。美術品ではなく実用品を作る職人がいいから、刀鍛冶には興味はない。カマやクワをたたいて作っている方が楽しそうだ。鋳物作りだと、ひとりではできないから、関心は薄い。木を扱うなら、家具職人も悪くないと思う。

 物を作るわけではないのにひかれるのは、ピアノの調律や楽器の修理だ。ひとりでやる作業だから、ひかれるのかもしれない。楽器の修理は、ある程度の技術を体得するまでは勤め人の修業期間を過ごすのだろうが、それは気にならない。

 今現在の妄想では、「ライターをしている自分」は思い浮かばない。その理由は簡単だ。ライターになりたくてなったのではなく、なしくずし的にライターになったからだ。10代の私は、「いずれ、外国に行きたい」と、それだけしか考えていなかった。働くということは、外国に行く資金稼ぎが第1で、生活はギリギリでよかった。建設作業や清掃作業をして、旅行資金を作っていたのだが、そのうちに「旅行をすることで稼げる仕事」を探した結果、ライターという職業にたどり着いたのだ。今の若者だと、「なんとしても、外国に行く。数年かかってもカネを貯めるぞ」という決意は昔ほどには強くない。旅行と仕事を別事項として考えているからではないだろうか。