1880話 20歳の妄想

 

 1856話で、若いころは将来やりたい仕事なんかまったく考えていなかったという話を書いた。やりたい仕事などないが、映画や旅行などやりたい遊びと、やりたくない仕事はあったといったことを書いたのだが、その後、「仕事の妄想」はあったなと思い出した。

 祭りなどに、的屋(テキヤ)が店を出している。焼きそばや、お好み焼き屋、金魚すくいや安物のおもちゃやなどを売っている。社寺で店じまいの作業をしている人たちを見ると、作業を手伝った後そのままくっついていくという妄想をすることがあった。その昔、旅芸人や浪曲師に惚れてくっついていく娘がいたそうで、かすかな記憶では井上ひさしの母親も旅の浪曲師に惚れて街を出たのではなかったか。

 童話風に言えば、ハメルンの笛吹きに誘われる少年のように、的屋といっしょに旅をするのは楽しそうだと妄想した。ただ、しばらくしてわかるのは、的屋は全国各地を旅して商いをするのではなく、ある狭い地域での営業だから、沖縄や北海道に出かけるわけではない。

 もう少し現実がわかってくると、日本のどこかのゲストハウスに泊まっているうちに、アルバイトをやり、そのまま居つくという状況も想像したことがある。現実にそういう若者もかなりいたのだが、職があるのは夏の繁忙期だけで、数か月で失職する。スキー場のアルバイトもあるだろうが、寒い場所に行く気がそもそもない。ゲストハウスのある場所や労働事情によっては、通年の仕事を得ることが可能だろうが、そうなったら旅するおもしろさがなくなる。

 21歳から外国を旅するようになった。旅に何かの目的があったわけではない。「ただ、世界を見たい」と言うだけだった。私は「自分探しの旅」はしたことがないが、「いい場所探しの旅」を考えていたかもしれない。積極的に「いい場所」を探していたわけではないが、「ここ、いいなあ。住んでみようか」と思える場所があれば、旅を中断して住むのも悪くないと思った。

 タイで定住を決めた男のほとんどは、女がらみだ。「女に惚れた。タイで、一緒に住む」。そういうきっかけで、仕事を探し、住むことを決めた男を何人も知っている。タイは日本人の観光客や住民が多いから、日本人相手の仕事は簡単に見つかる。タイ人と結婚すれば、配偶者ビザを得られるから、収入の問題はともかく、資格的には定住がしやすい。

 幸か不幸か、私はそういう道に歩み出さなかった。「好きな女と暮らせるなら、仕事なんか何でもいい」と覚悟させる出会いがなかったし、いつもふらふらしたい私は、そういう形の定住を本当は望んでいなかったということでもある。

 自分の趣味趣向がまだはっきりしなかった1970年代は、ゲストハウスの手伝いでなくても、「世界のどこかで、何かの出会いがあって住み始める」という妄想はあった。何かの手工芸であったり、何かの研究であったり、あるいは人との出会いで定住するかもしれないと思っていた。それは期待ではなく、「そういうことがあるかもしれない。そうなったら、住むのも悪くないか」という想像だった。

 しかし、日本以外のどこかに住む道を選ばなかった。タイには長期滞在したが、1回の滞在は6か月までにしていた。「長いと、飽きる」からだ。タイの専門家になる気などなく、1年か2年つきあったら、インドネシアに半年、ネパールに半年というように、どこかの国に移動しようと思っていたから、タイ定住を考えなかったのだ。タイ語を徹底的に学んで、タイ語の資料を自在に読めるようになると、ほかの地での研究を始めにくくなる。どこへでも気軽に行きたいのだ。『バンコクの好奇心』を書いたら、『ジャカルタの好奇心』を書こうと考えていた。

 ライターという日本語を使う仕事を選んだから、いつも日本語のそばにいたかった。1年の半分は、日本語の資料に囲まれた場所で過ごしたいと思っていた。もしも私が、日々の雑事を書くエッセイストとか想像力で書ける小説家だったり、絵や写真に関わる仕事をしていたら、どこかでの定住、それが1年か数年程度のものであるかもしれないが、大小説家のように世界各地で住む人生を選んだかもしれないが、私は調べて書くライターを選んだせいで、資料の山に埋もれていたかった。だから、日本を離れることができなかったというわけだ。「この国に住めるなら、仕事などなんでもいい」とは思えなかったのだ。