1886話 昔々のタイ語学習 その2

 

 桜田育夫さんは1930年生まれで、2012年に亡くなった。私がよく会っていたのは、NHKを退職した1990年代だ。

 1930年生まれということは、大学に入学したのは48年頃になるのだろうかと調べ始めると、とてつもなくややこしい事実に突き当たった。終戦時、桜田さんは15歳だが、中学生だったかどうかはわからない。旧制中学生かもしれないし、、軍の学校かもしれないし、飛び級旧制高校に入学予定であったかもしれない。昔の学校制度は複雑怪奇で理解が難しいのだ。中学や高校が旧制から新制に変わるのは1947年だ。そのころ、東京外国語大学はまだない。そのあたりのことを、桜田さんと話をしておけばよかったとは思うが、もちろんもう遅い。

 複雑な前史を省略して説明すれば、1873年に生まれた東京外国語学校は、1944年から49年まで東京外事専門学校という名称だった。東京外国語大学(以下、東外大に略)の誕生は1949年である。桜田さんが18歳になった1948年には、まだ東外大はなかった。桜田さんが現役入学か浪人したのかがわからないから、入学したのが専門学校だったのか大学だったのかはわからないが、戦前から引き続き東京外事専門学校に「シャム語科」はあったから、桜田さんは「タイ語科」の学生ではなく。「シャム語科」の学生になったというわけだ。

 アジアの勉強会のあと、食事をしながら桜田さんに昔話をしてもらった。

 「大学でタイ語を勉強したいと思った、なにか特別な理由はあったんですか?」

 桜田さんは、東京の職人のようなべらんめえ口調で話す。

 「できることなら、英語かフランス語を勉強して、商社かどっかの大企業に入って、世界で仕事をしたいと思っていたんだけど、オレ、頭悪いからよお、英語科やフランス語科なんか到底合格するわけはねえんだよ。で、競争率の低い学科、入学するのが簡単な学科を探したら、インドネシア語タイ語だとわかった。どっちだって、おんなじようなもんだから、何にも考えずにタイ語科志望の願書を出したんだ。それだけ」

 1949年の東外大開校当時、次の学科があった。

 英米、フランス、ドイツ、ロシヤ、イタリア、イスパニアポルトガル、中国、蒙古、インド、インドネシア、シャム

 そのころはまだ、「中国語」ではなく「支那語」だったのではないかと調べてみた。1873年の東京外国語学校設立時は、「清語」と呼んでいた。「漢語」という名称もあったようだ。1913年に「清語科」が「支那語科」になり、46年に「中国語」に変わる。タイ語は国名変更などあってややこしいので、詳細は省くが、「暹羅語」が「シャム語」になり、「タイ語」に変わるのは1961年である。したがって、桜田さんが入学したのは、すでに書いたように、正確には「タイ語科」ではなく、学科名でいうと「シャム科」である。

 「受験勉強に励んだせいで、なんとか合格したんだけどよ、最初の授業でまいったよ。みんな『おおー!』と声をあげたね。タイ語にタイ文字があると知っていた学生はひとりだけだ。そいつを除いて、みんな『失敗だ、インドネシア語にしておけばよかった』と嘆いたね。外国語って、中国語とアラビア語を除けば、みんなローマ字だと思っていたからさ」

 今なら、タイ語がどんな言語か、東外大志望の高校生なら少しは知ってから入学願書を出すだろう。テキストがいくらでもあるし、インターネットの情報も多い。しかし、戦後間もなくだから、タイ語の情報などないのが当たり前だ。だから、シャム科の学生は、ひとりを除いてタイ語を見たこともなかったということだ。そういう時代だったのである。

 『東京外国語大学史』(1999)が、大学のHPで読むことができる。タイ語科のページには教員や講師の名が列挙されていて、タイ関連書をまとめ読みしたことがある私には、なじみのある名前が並んでいる。そのなかに「桜田郁夫」というのがあるが、それは桜田育夫の誤りだと思う。桜田さんは、大学卒業後NHK国際局に勤務して、退職後もタイ語に関わった。