『ターヘル・アナトミア』(「解体新書」)の時代は遠い昔のことではあるが、それから100年以上たっても、外国語学習の環境はあまり変わっていなかった。1960~70年代だと、アジアやアフリカの言語を学ぶのは難しいのは当然としても、西洋語でもイタリア語やポルトガル語を学ぶのも簡単ではなかった。英語は例外だが、そのほかの言語を教える教室が見つかっても、東京や京阪神にあれば、それ以外の地に住んでいる人は、わざわざ出かけなければいけない。1960年代になっても、英語以外の外国語は長崎にオランダ語を学ぶに行くようなものだった。
日本の鮮語学習史を、ほんの少し調べたことがある。萩原遼の場合はどうだったかという話は1532話でちょっと書いたが、ここで採録する。
言語と政治という話になると、「赤旗」のピョンヤン特派員だった萩原遼(1937~2017)の若き日のことを思いだす。高校生時代から朝鮮半島事情に興味を持っていた彼は、その当時、日本で唯一朝鮮語を学べる大学だった天理大学を受験したが、不合格になった。成績優秀な高校生が試験に落ちるわけはないと調べてみると、当時の天理大学朝鮮語科は、韓国・朝鮮人を取り締まる警察関係者の教育機関でもあったとわかった。だから、高校生時代にすでに共産党員になっていた萩原は、入学不可となったのである。大学で朝鮮語を学ぶことをあきらめて、どこかほかに学習機関はないかと調べたら私塾のようなものがあることを知った。早速行ってみると、そこは朝鮮総連の教育機関だった。北朝鮮に帰国する朝鮮人の夫と同行する日本人妻の朝鮮語教室だった。日本人の萩原は、今度は官憲のスパイを疑われて入学を拒否された。大阪外国語大学に朝鮮語科が開設された1963年、萩原は第1期生として入学した。萩原はもう26歳になっていた。韓国・朝鮮語のラジオ講座もテレビ講座もなく街に教室もなかったという時代だ。
東外大の朝鮮語科は、次のような変遷があった。朝鮮語科は、東京外国語学校が設立された1880年代からあったが、1927年に廃止された。「朝鮮は日本が併合したから日本で、朝鮮語は外国語ではない」というのが、その理屈だ。東外大に朝鮮語科ができたのは、大阪外国語大学に遅れること14年、1977年になってからだ。
『イスタンブールのへそのゴマ』(旅行人、1999)を書いたフジイ・セツコさんのトルコ語学習の歴史も興味深い。トルコを旅行して、この国が気に入った。帰国して、トルコ語を勉強したくなったが、できのいい教科書もトルコ語教室も見つからない。在東京トルコ大使館に問い合わせると、山梨在住のトルコ人なら教えてくれるかもしれないとわかり、フジイさんは東京から山梨に通いトルコ語の基礎を学んだあと、トルコに留学したのである。いまなら、インターネットで気軽に、しかもタダで勉強できるが、1990年代でも英米仏語以外の勉強は簡単ではなく、首都圏以外の地に住んでいたら、高い教科書を買って独習するしかない。そういう時代だった。
文化人類学者の西江雅之さんは、早稲田の学生だった1960年前後のころ、スワヒリ語の勉強を始めたのだが、教科書として唯一手に入ったのはロシア語で書かれた本だった。その本をアフリカに行く船のなかで読み、東アフリカで実践の勉強をした。勉強の成果は、日本最初の『スワヒリ語辞典』(1971年)となった。そういう「特別な人」を除けば、文法の独学はできても会話の勉強は難しい。
アジアやアフリカに興味がある人たちには、1961年創立のアジア・アフリカ語学院は有名ではあったが、東京都三鷹市の、交通の不便な地にあるので、東京西部在住者でないと通うのがなかなか大変だ。通うのが大変でカネもかかるので、めんどくさがりでケチな前川青年は、「めんどくせー」とハナから通う気がなかった。