1896話 言葉は実におもしろい。地道に勉強する気はないけれど・・・ その7

 

話したいこと 下

 私が英語を話す人と初めて会ったのは、日比谷だった。高校2年生だった。友人と散歩していたら、西洋人の男女が話しかけてきた。皇居に入りたいが、どうすればいいのかという質問だった(そう、初めて耳にした生の英語を聞き取れたのだ!)。その返事は、英語がよくできる友人がしたから、私は話していない。

 その次に外国人と出会ったのはやはり高校2年生の時で、箱根からの長距離バスのなかで、大渋滞に巻き込まれていた。隣りの席に新婚旅行のアメリカ人がいて、1時間ほどしゃべっていた。「しゃべっていた」を、正しく表現すれば、「単語をただ並べていた」ということなのだが、私の質問は通じていたし、返事も聞き取れた。私にはアメリカ人の生活について、知りたいことがいくらでもあった。

 私が外国旅行を始めた1970年代は、ガイドブックのない時代だから、何でも聞かないと情報は入ってこない。誰彼問わずに、とにかく質問し、教えてもらわないと旅行ができない時代だったのだ。「ガイドブックを持たずに旅をしていたなんて、前川は格好つけやがって」という批判を何度か目にしたが、持っていきたくなるガイドブックなどなかった時代なんだということが、私よりも若い世代には理解できないらしい。『地球の歩き方』をあえて持たずに日本を出たのではなく、使えるガイドブックがまだ出版されていなかったのだ。「それなら、インターネットを使えばよかったじゃん」なんていわれるかも。これが単なる冗談だと思う人がいるかもしれないが、ノンフィクションなのだ。「1964年に海外旅行が自由化されても、米ドルへの交換が自由にはできなかった、金持ちでも好きなだけのドルを持って日本を出ることができなかった」という話を30代の編集者にしたら、「ドルなんて持って行かないで、日本円のまま持っていけばいいじゃないですか!」といわれて、大口をアングリ。「クレジットカードを持っていけばよかったのに」とは言われなかったが。

 さて、話を戻す。

 21歳のとき、日本を出た。インド旅行で、英語で困ったことはあまりなかった。平和部隊だったか、アメリカの援助団体の隊員としてインドに派遣され、任期終了後もインドで滞在しているアメリカ人と知り合い、彼の家に泊めてもらったことがある。夕食後、寝室にしている涼しい屋上に上がり、夜更けまで雑談をした。私はトボトボ・ヨボヨボの英語をしゃべった。彼は、はっきりゆっくりやさしい単語を選んで話してくれた。私には知りたいことがいくらでもあって、会話が留まることはなかった。

 旅先で外国語が話せるようになるには、ひとり旅がいいし、日本人旅行者と仲良くしないほうがいいと、高野さんも書いている(P22)。耳と口が日本語だけに適応していると、外国語になじめない。

 海外駐在員の妻は、ふたつのグループに分かれると、深田祐介が書いていた。日本人だけで集まり日本語だけで生活しているグループと、英語など外国語ができてさまざまな民族の人たちとつきあっている人たちのグループだという。日本人グループの楽しみは、「ここの人たちったら・・・」とか「日本だったら・・・なのにね」といった話題で駐在国やその国民の悪口をいい、日本人社会に入ってこない日本人の悪口を口にして盛り上がる。日本人の保守本流は、紅毛碧眼にはヘラヘラするが、いまだに尊王攘夷のままだ。

 私がバンコクタイ語学校で出会ったふたりの日本人女性は、イギリス留学時代に知り合い、バンコクで駐在員の妻として偶然再会したという。ふたりとも英語ができるから、タイの大学の英語で授業をするコースでも学んでいた。大学ではさまざまな人たちと知り合っていた。

 夫が、日本企業の現地法人の社長という人も、タイ語学校の同級生だった。休憩時間に、こういう話をしていた。

 「子供が日本人学校に通っていると、日本人社会と距離を置いて暮らすことはできないのよね。ウチの場合は、結婚してすぐからいままでずーっと外国暮らしだから、子供たちはインターナショナルスクールに入れていて、フランスとイギリスで寄宿舎生活をしていた。だから、日本人学校の行事に参加して・・といった付き合いをしなくても済むの。子供の教育をどうするかで、駐在生活のスタイルが決まるのよ」