読書 21 ことばの本2
タイ研究者の間では通称『冨田辞典』と呼ばれている『タイ日辞典』(現在は『タイ日大辞典』)が優れていることのひとつは、「読んで楽しい辞書」だからだ。雑学の宝庫ということでも、肩を並べる辞書はない。『タイ日辞典』については、このアジア雑語林で1925話ほかでしばしば書いたから、ここではタイ語以外の辞書の話をする。
『タイ日辞典』と同じように雑学の宝庫といっていい辞書が、『馬来語大辞典』(武富正一、旺文社、1942)だ。戦時中の外国語教育史を調べれば、日本軍がアジアの言語資料を数多く出版していたことがわかる。このマレー語辞典もそのひとつで、初版は『大辞林』のように大きく厚い本だが、私が手に入れたのはその縮刷版だ。神保町では3000円から5000円くらいでときどき見かける本で、いまアマゾンを調べれば2000円台から手に入る。東南アジアの衣食住など雑学に興味がある人は、買っておいて損はない。今でも単語帳のような辞書ならいくらでもあるが、これほど用例や情報が詰まっている辞書は現在でもほかにない。
発行人である旺文社の赤尾好夫の「序文に加へて」によれば、この辞書は1941年12月に日本軍から「すぐさまマレー語辞書を作れ!」という命を受けて、その1年後に完成したものであるという。1000ページを超える辞書がたった1年で刊行できた理由を、インドネシア語研究者が教えてくれた。「インドネシア語・英語辞書の翻訳が基本ですよ」。だから、見出し語の取捨選択といった基本作業に時間をかけず、ひたすら英語の翻訳に労力を消費したようだ。『英語と日本軍』(江利川春雄、NHK出版、2016)は、この辞書を紹介しているが、1年足らずで完成したことに疑問を感じなかったようだ。
というわけで、この辞書の誕生には問題がありそうだが、事典的な内容はやはりすばらしい。衣食住に関する語を調べてみると、こうだ。次の3語とも、マレーシアやインドネシアをちょっと旅したことがあれば、目や耳になじんでいる語だ。
Sarongは日本でも「サロン」という名で少しは知られている腰布、あるいは布そのもののことだが、その説明が2000字以上ある。nasiは飯のことで、その説明が800字ほどある。kamarは部屋だ。もう50年前から知っている語だが、今辞書で確認して、オランダ語起源だと初めて知った。オランダ語で部屋はkamerで、インドネシアでkamarと変化したのだ。参考までに書いておくと、この時代はマレー語とインドネシア語の区別ははっきりしていない。インドネシアという国家が生まれたのは1945年で、現在のマレーシアとインドネシアにあたる地域で共通語として使われていたのがマレー語で、「インドネシア語」という語は、独立運動の過程で使われるようになった。1920年代のことだ。マレーがイギリスの植民地、インドネシアがオランダの植民地という歴史から、マレー語には英語からの借用語が多く、インドネシア語にはオランダ語からの借用語が多い。
『馬来語大辞典』は記述が古い部分があるので、実用目的でいくつかの辞書を買った。『標準日本・インドネシア語辞典』(谷口五郎、谷口研究所、1985)は「頒価1万2500円」と書いてある。同じ著者の『標準インドネシア語・日本語辞典』(谷口五郎、日本インドネシア協会、1982)は「頒価1万3500円」とあるが、インドネシアで買ったのでかなり安くなった。インドネシアの書店の値札がついていて、2冊合わせて3万ルピアほどになる。この辞書が発売されたころの3万ルピアは日本円で約6000円ほどだが、私が買ったのはアジア通貨危機でルピアが大暴落したときで、わずか400円ほどになっていた。そういう事情だったので、札束をバッグに入れて書店に通った。高額の値札が付いている本も平気で買い、支払い合計が100万ルピアを超えることもあったが、日本円にすれば1万3000円ほどだ。
読むインドネシア語辞典に近い本に、『インドネシア語の中庭 1994~1999』(佐々木重次編、Grup sanggar、2001)がある。インドネシア語研究者の雑談集とでも言った内容で、部外者である私が読んでもおもしろい。B5版570ぺージの私家版だから、入手困難。国会図書館にはあるだろうと確認すると、あったのだが、もう1冊『インドネシアの中庭 2000~2001』も出ていたことを知った。『1994~1999』は神田神保町にあったアジア文庫で買ったのだが、すぐに品切れになった。『2000~2001』は店頭に並ばなかったのかもしれない。この辞書の話は、1910話で書いている。