2126話 ソウル2024あるいは韓国との46年 その21

宿の場所 1

 1973年以来の長い旅行経験のなかで、あらかじめ宿を予約しておくという行為を最初にしたのは2017年の大阪で、18年のプラハ、19年のリーガ(ラトビア)と続く。それ以前の南ヨーロッパの旅は、行き当たりばったりだった。

 今回のソウルは、滞在日数が短いうえに、安宿を探して大都市を歩き回るのは時間の無駄という気がして、世間の流れに乗って宿の予約をすることにしたのだが、ソウルの地理がわからない。聞き覚え、耳なじみの地名はいくつかあるが、それぞれの位置関係がわからない。私の乏しい記憶に残るソウルは、まだ地下鉄があまりできていない頃なので、地理と交通路の情報をある程度頭に入れておかないと、宿の場所を選択できない。

 ソウルの地図はネットにいくらでもあるが、最良だと判断したのは『地球の歩き方 ソウル』だった。ごく狭い範囲の地図だとグーグルマップなどが使えるのだが、広い範囲を頭に入れようと思うと、『地球の歩き方』がいい。ソウルに着いてからだが、書店で地図を探したが、すでにデジタル主流になっているせいか、手頃で詳しい地図は見つからなかった。初めての街に来たら、本屋に立ち寄って地図を買うというのがなかば習慣になっているのだが、どうやらそういう買い物はもはや時代遅れらしい。

 『地球の歩き方』の地図を広げて、東大門、南大門、ソウル駅、明洞、景福宮あたりから範囲を広げ、仁川国際空港からどういうルートでソウルに入るのか、鉄道路線を追う。そうやって入念にソウルの地理を調べてから宿を予約しようと思ったのは、過去の苦い体験があるからだ。

 1978年のソウルでは独力で宿探しをしたが、85年のソウルは雑誌の取材だから、編集部が用意した航空券とホテル予約券を持ってソウルに着いた。私とカメラマンはソウル支庁近くのビルで、コーディネーターと通訳に会い、翌日からの取材の打ち合わせをして、そのあとはっきりした記憶はないのだが、通訳がバスでホテルまで案内してくれたと思う。

 そのホテルは大変な場所にあった。犯罪地帯(ソウルにそういう場所があるのかどうか知らないが)とか大工場の隣りというわけではないが、問題が多すぎた。とにかく遠方なのだ。東京を例にすれば、取材先は千代田区, 中央区、品川区あたりで、通訳とコーディネーターが案内してくれるから足の心配はないのだが、ホテルが板橋区の埼玉寄りにあり、そこからバスで行き来すると考えればわかりやすい。地図上ではソウル市の北辺なのだが、環境は八王子市だ。

 ホテルの前のバス停の名を通訳に聞いたら、韓国語でその名をいい、「日本語では〇〇山登山口です」といった。高尾山登山口というイメージだ。ホテルのそばには数軒の住宅と雑貨屋があるだけで、坂を登れば、山しか見えない。反対に、街のほうに下ると道の両側は広い畑だった。山のふもとの浮島のごとき場所に我がホテルがあった。バスでしばらく下ると、新興住宅地が広がっていたようで、そこがドラマ「応答せよ 1988」の舞台となった道峰区である。

 翌朝、バスを待っていたら、中心部から来たバスを降りた人は皆リュックを背負い、登山口に入って行く。取材に行ったのは2月で、山裾のホテルの庭に寒暖計があり、「-11℃」という表示があった。それが、寒い場所が大嫌いな私の生涯最低気温体験である。1時間かけて中心部に着くと、「-8℃」という表示になっていた。

 その日の取材を終えて食事をすると、氷点下のバス停で長時間バスを待つことになる。バスの便数が多い時間にホテルに戻っても、近所に飲食店がないという寂しい農村生活だった。

 今なら地下鉄4号線で行くことができる場所だが、私が行った頃はバスしか移動手段がなかった。ソウルをバスで移動するというのは、当時をよく知っている人なら骨身にしみてわかっていることだが、バンコクほどではないにしろ、けっこう大変なものだった。バス停の客を無視して走り抜けるといった話は、いずれ機会があればしよう。

 近くに雑貨屋しかない地区に送られたのは編集部のいやがらせかと思ったから、帰国後に問い詰めたら、「旅行社に任せたから、場所までよく知らない」という返事だった。編集部は「安い宿」と注文し、旅行社は飛び切り安い宿を予約し、編集部に高い料金を請求したのではないか。

 もうあんな体験はごめんだと、87年の取材のときは中心部明洞(ミョンドン)の宿をとってもらった。そういうことがあったので、ソウルの宿探しは慎重になったのだ。