ソウル生活史博物館 2
ソウル生活史博物館の展示で、「おお、これは・・・」と感動した展示がふたつあった。練炭の展示と特別展のポピュラー音楽史だ。
韓国は練炭なしには語れない。『韓国人と煉炭』といった歴史学や社会学などの論文集や、『アンソロジー煉炭』(全5巻)といった本が出版されていても不思議ではない。煉炭をテーマにした小説やエッセイがいくらでもあるあるだろう。それほど煉炭は韓国人にとって重要なものだ。しかし、私は韓国文学をほとんど読まないから、心当たりのある作品はこれだけだ。
『ヨンタンキル』(イ・チョルファン)という短編集がある。日本語にすれば「練炭の道」という意味だ。収録されている短編のなかからいくつかの物語を選び、日本語版にしたのが『月の街 山の街』(草彅剛訳、ワニブックス、2011)である。月の街とは、タンドンネという韓国語の翻訳で、住宅地にはなりにくい山の斜面などに建てた不法住宅の集落が、山にあるから月に近い地ということでその名がある。
この短編集の「はじめに」に、こういう文章があると翻訳者が紹介している。
子供の頃私が暮らしていた「月の街」「山の街」では、雪がうずたかく積もると、みんなが煉炭の灰を持って門の外に出てきます。坂道で滑らないよう、灰を敷き詰めるためです。それは雪よりも白い愛でした。貧しさに沈んでいる「月の街」「山の街」の人たちが、翌朝、明るく胸を張って坂道を下りていけるように。
「朝鮮人は、山の木を切ってオンドルで燃やしたから、どこもはげ山だらけだ」という文章を読んだのは、多分70年代だろう。オンドルとは、かまどで焚いた熱気を床下に流す暖房システムで、もちろんオンドル以外にも、長年に渡って煮炊きや建築資材などにも木材を使ってきたが、伐採したあと植林をしなかったから、どの山にも木がないという文章だった。その話を思い出したのは、1978年にソウルから釜山へ鉄道で旅しているときのことで、本当にはげ山が目についた。森の伐採は焼き畑の影響もあると、のちに知った。
日本時代に植林をしたようだが、のちに朝鮮戦争などがあり、植林をする余裕はなく、しかし木は次々に切られ、オンドルで燃やされていった。そういう状況を何とか打開したいと編み出したのが、1960年代から本格的に使用を始める練炭だった。
今の日本人には煉炭はほとんどなじみがないから、ちょっと説明をしておこうか。煉炭は、石炭や木炭の粉やコークス(石炭を蒸し焼きにして不純物を取り除いたもの)などの粉を、結合剤でまとめて筒状にしたもので、サイズはいくつかるが、かつては穴が19本のものが主流だったが、のちに22本の穴のものが標準になった。
日本煉炭工業会のHPでは、練炭は西洋にある木炭を成型したものにヒントを得て、榎本武揚が考案したという。朝鮮には1920年代に伝えられた。韓国語ではヨンタンという。
練炭工場
練炭は重くてかさばるので、買い物のついでに買っていくということはできない。路地の奥、丘の上に煉炭を届けるのは重労働だったという記録写真。
練炭は暖房用だけでなく、煮炊きにも使われた。
韓国の中高年は、「煉炭の燃え殻が、博物館に展示される時代になったんだなあ」とさぞかし感慨深いだろう。ただ、ソウルでも練炭を暖房用に使っている家庭はまだあるから、けっして昔話ではない。