ソウル生活博物館 8
韓国では長らく日本文化を拒絶排斥してきた。日本語の歌、日本映画、日本のテレビ番組、マンガなどは、「日本の俗悪は文化が韓国に流入されないため」という理由で禁止されていた。雑誌で読んだのだろうが、初めて韓国に行く前からそういう事情は知っていた。しかし、韓国に来てみれば、日本語の本は売っていた。韓国政府にとって問題のない内容のものなら輸入は問題なかったから、日本の翻訳小説もいくらでもあったし、「文藝春秋」の輸入は全く問題がなかったが、岩波書店の本はおそらくすべて輸入禁止だったと思う。
80年代の記憶かもしれないが、日本の歌をカセットテープにダビングした海賊版や、もしかして日本のテレビ番組や映画を録画した海賊版ビデオテープも路上で堂々と売っていたような記憶がある。テレビやラジオでの放送、劇場での上映やコンサートなどでの上演は禁止していたが、私的な場所で歌うことまでは禁止していなかったようだが、どこまで厳しい規則なのか知らない旅行者は、けっして気楽なものではなかった。「反日有理」、「すべての反日行為は称賛される」という時代である。
韓国の「反日本文化」の歴史的推移は、「韓国での日本大衆文化の流入制限」で少しはわかる。日本語の歌は特別な機会と特別な歌手には許可された。88年のソウルオリンピック前夜祭で西城秀樹が「傷だらけのローラ」を日本語で歌ったのが、戦後初めて公式の場で歌った日本語の歌だったといわれている。政府公認の場ではなく、日本語の歌をコンサートで歌ったのは加藤登紀子だった。1990年の出来事で、確信犯の行動だったわけではなく連絡ミスだったらしい。
1978年夏、ソウルから南下して釜山に来ていた。ある日の昼飯に立ち寄った食堂でのことだ。店内に流れていた歌が、日本の歌のようなメロディーだった。韓国の歌謡曲は日本の歌謡曲に似ていると思った。「韓国の歌謡曲が、日本の歌謡曲に似ている」という噂から、「演歌の源流は朝鮮にあり」といったデマが流されていた時代なのだが、店内に流れている歌はたしかに日本の歌に似ている。都はるみの歌い方にとてもよく似ている。
耳をすませてよく聞けば、それは日本語の歌だ。私がよく知っている都はるみの歌だ。ふと見上げれば、店の天井近くに設置されているテレビに、都はるみが映っている。しばらく画面を見つめていると、それは「NHKのど自慢」だとわかった。都はるみはゲストだったのだ。韓国と日本は時差がないから、韓国の日曜日の昼時は日本の昼時でもあり、NHKの放送がそのまま釜山でも受信できたのだ。済州島なら、もっと鮮明に受信できただろう。
テレビ放送が受信できるなら、ラジオ番組ならなおさらだろうが、韓国で日本のラジオ番組に耳を傾けていた人はいただろうが、そのエピソードを聞いたことがない。
VHS時代、テレビで日本のテレビドラマを録画して、韓国に運ぶ手口を紹介していた。日本で録画したビデオのケースを壊し、テープだけにして何本か集め、韓国に運び、すぐさま字幕を付けるという作業を紹介していた。
時代はずっと下って、コロナ禍直前のリーガ(ラトビア)のレコード店の主人と雑談をした。ラトビアがソビエトから独立する1990年以前、まだ少年だった彼は、西側からレコードを持ち込み(その手段は聞かなかった)、カセットテープにダビングして海賊版テープを製造して大儲けして、今の店の資金の一部を作ったという。
1975年夏、私はモスクワにいた。横浜港集合、ロンドン・ヒースロー空港解散という片道団体旅行の途中だった。個人旅行が許されないソビエトだから、ガイドという名の監視人がいた。我々一行を担当した若いロシア人は、シベリアで日本語を学んでいる大学生で、ガイドは夏のアルバイトだといった。彼は、日本人と普通に会話できるくらいの日本語ができた。教室と教科書で覚えただけの日本語ではなかった。私とほぼ同い年ということもあって、雑談を楽しんでいたのだが、彼は英米のロックに実に詳しかった。知識として知っているだけでなく、レッド・ツェッペリンやディープ・パープルなど英米音楽をよく聞いているとわかった。当時のソビエトでは英米音楽は禁止されているのは知っていたから、彼の音楽知識の秘密が知りたくなった。
「なんで、そんなにロックに詳しいの?」
「だって、毎日『オールナイトニッポン』を聞いていれば、日本語も音楽も覚えるよ」
さすが、日本語を専攻するシベリアの大学生である。