韓国も日本も、変わった 2
朝鮮語学習というと、いつも萩原遼のことを思い出す。このコラムですでに触れたことがあるが、再度書いておく。
言語と政治という話になると、「赤旗」のピョンヤン特派員だった萩原遼(1937~2017)の若き日のことを思いだす。高校生時代から朝鮮半島事情に興味を持っていた彼は、その当時、日本で唯一朝鮮語を学べる大学だった天理大学を受験したが、不合格になった。成績優秀な高校生が試験に落ちるわけはないと調べてみると、当時の天理大学朝鮮語科は、韓国・朝鮮人を取り締まる警察関係者の教育機関でもあったとわかった。だから、高校生時代にすでに共産党員になっていた萩原は、入学不可となったのである。大学で朝鮮語を学ぶことをあきらめて、どこかほかに学習機関はないかと調べたら私塾のようなものがあることを知った。早速行ってみると、そこは朝鮮総連の教育機関だった。北朝鮮に帰国する朝鮮人の夫と同行する日本人妻の朝鮮語教室だった。日本人の萩原は、今度は官憲のスパイを疑われて入学を拒否された。その後、大阪外国語大学に朝鮮語科が開設された1963年、萩原は第1期生として入学した。萩原はもう26歳になっていた。韓国・朝鮮語のラジオ講座もテレビ講座もなく街に教室もなかったという時代だ。ちなみに、東京外国語大学に朝鮮語科が設置されたのは1977年である。
萩原が朝鮮語を学べる学校を探していた1960年前後から20年ほどたった1979年、四方田は韓国に行った。そのころは、どんな時代だったのか。韓国で教師をやるという話を聞いた友人知人の反応は、こうだ。
・韓国は軍事国家だから、行くな。帰国すると右翼扱いされる。
・日本人は危険な眼にあう。
・外国に行くなら、どうしてもっときれいな街にしなかったのか。
こういう感想あるいはアドバイスがあった理由は、当時の社会を知らないとわからないだろう。当時、北朝鮮は「理想的な国家」という宣伝が左翼系マスコミで広められた。一方韓国や台湾は、アメリカ帝国主義と結託した軍事独裁国家というのが左翼側の主張だった。反共を主張する右翼メディアは、右翼はもちろん、自民党、経済界との結びつきが強く、その線で国際勝共連合(統一教会を母体とする団体)とも深い関係にあった。北朝鮮のうさん臭さはまだ広く知られる事実ではなかったが、韓国のうさん臭さ危うさはたびたび報道されていた。
親米愛国反共の右翼・自民党は、韓国の政権と深く結びついていながら、日本では朝鮮人韓国人に対する差別者だった。日本と韓国のうさん臭い関係は、「日韓トンネル」などいくつもある。
そういう時代だから、「朝鮮語を学ぶ」と言えば、親北朝鮮の共産主義者、「韓国語を学ぶ」と言えば、アメリカや右翼とつながると受け取られた。北にしろ南にしろ、朝鮮半島はややこしいから、関わらないほうがいいという空気があった。それでも関わったのは、まだ数が少なかった研究者かジャーナリスト、在日韓国朝鮮人か、あるいは暴力団やパンチパーマの売春旅行者たちだった。韓国は、やくざかやくざ風の男たちが行く場所だから、堅気の人間が気軽に出かける国ではないという感覚があったから、若い女性がはしゃぎながら旅行するような場所ではないという感覚だった。「るるぶ 韓国」が発売されるのは1990年代からだ。
1980年代なかば、雑誌の取材でグアムにいた。昼飯時になっても、うまそうな店が見つからず、井之頭五郎状態でうろついていて、韓国料理店を見つけた。
店に客はいなかった。メニューは韓国語と英語で書いてあった。壁に貼られた紙片にハングルだけの調理名があり、それがメウンタンだったか何だか忘れたが、指さしながらその料理を注文した。
注文を受けた40近い女性は、私を見ながら「ハングック・サラム?」(韓国人?)と聞いたから、インチキ韓国語で「アニョ。イルボンサラム・イムニダ」(いえ、日本人です)と返答すると、いぶかしげな顔をした。そして、「ああ、そうか」というような顔をして、「アボジガ・・・」(父親が・・)というので、再び「アニョ」。すると「オモニガ・・・」(母親が・・・)といった。私を在日韓国朝鮮人だろうと推測したのだろうが、いずれの質問に対しても「いいえ」と答えるから、「この男は何者だ!」と怪しんだようだ。日本人が韓国語を学ぶはずがない。ちょっとでも話せるなら、韓国朝鮮人二世なんだろうと推測したようだ。だから「ハラボジガ・・」とついに祖父まで持ち出し、三世に違いないと思ったようだが、やはり「アニョ」(いいえ)と答えた。
少しでも韓国語をしゃべる日本人は韓国朝鮮系か、それとも韓国に恋人がいるか、あるいは駐在経験者だろうと推測するのは、当時の常識で、意味もなく韓国語を学びたいと思う日本人などいるわけはないと、韓国人も日本人も思っていた。そういう時代だったのだ。中国語やロシア語を学ぶ者は共産主義者と認識されていた時代だ。
NHKのラジオとテレビで韓国語講座が始まるのは、1984年である。この講座に関して書いていくと長くなるので、これを参照。