韓国も日本も変わった 3
朝鮮半島のややこしさについて書きたい。
ひょんなことから関川夏央さんと知り合ったのは1980年代初めころで、関川さんは当時「漫画アクション」(双葉社)でコラムを書いていたのは知っていたが、世間的にはまだそれほど知られたライターではなかった。その後も何かの機会に顔を合わせると、ちょっと雑談をする程度の付き合いだった。関川さんの『ソウルの練習問題』が出たのは1984年で、すぐに感想を書き送った。すると、近々転居するという知らせるハガキに、「どこかで会いませんか」という誘いの文に電話番号が書いてあった。
関川さんが私に「会おう」と言ってくれたのは、ビンボーライターに編集者を紹介して、少しは稼ぎになるように助けようという慈悲だったようだが、生意気なビンボーライターは、「書きたくない原稿は、書きたくないんですよね」などと言ってその親切をことわった。その当時、なんとか暮らせる程度の稼ぎはあって、のちに『東南アジアの日常茶飯』としてまとめる食文化調査に関わろうと企てていたので、興味のないルポ記事など書きたくなかった。私は器用ではないし、物欲のない耐貧性の高いライターで、ちょっと稼ぎもあったから、「昭和枯れすすき」状態にはならないですんだ(わかるかなあ。貧しさに負けなかったという意味です)。
関川さんと会って、『ソウルの練習問題』の話をした。はっきりした記憶はないが、「あんなややこしい国に、よく手を出しましたね」と言ったような気がする。関川さんはスペイン語ができるから中南米に関心があるということは知っていたが、韓国に興味があるなどとまったく知らなかったから、韓国の本を書いたのは意外だった。私のつぶやきに対して、関川さんは何と言ったか覚えていないが、たぶん黙って笑っていただけだろう。
『ソウルAtoZ』(尹学準ほか、集英社文庫、1988)によれば、関川さんは1979年に観光旅行で初めて韓国に行ったとき、韓国に「わかりにくさ」と「かたくなさ」を感じて、勉強してみようと思い、その後何度も通ったという。78年の私はライターではなかったからか、韓国に行っても「わからないから調べてみよう」という職業的観察者の意識はまだなかった。今、このブログを書いているのは、まさに「韓国がわからないから調べてみよう」という好奇心からだ。
ついでにもうひとつ書いておく。関川さんも四方田犬彦も初めての韓国は1979年で、その年に朴大統領が暗殺されている。その大事件によって、ふたりとも韓国と強く結びつく結果になったのではないかと、根拠もなく私は想像をしている。
1980年代でも、朝鮮半島はややこしいのだ。社会問題、政治問題が連峰のごとくあり、在日問題もあり、政治家が東京で拉致されて(1973年)、のちに死刑判決を受ける国(1977年)、そして無期懲役に減刑されたのが1982年だった。そんな時代に、私は朝鮮半島の政治問題や社会問題にはできるだけ関係のない本を探して読んでいた。冊数だけでいえば、けっこうな数になるが、実際に韓国に行こうとは思わなかった。すでに書いたように、1978年の旅はフィリピンから日本に帰国できなかったから韓国ルートを選んだだけだ。ソウルから羽田に飛んだのでは面白くないから、釜山から船で帰国した。それだけだ。韓国に特段の興味があったわけではない。
韓国のニュースは、専制政治の暴力的でむなしい面が前面に出ていて、「また旅行しよう」という気にはとてもなれなかった。80年代に2度韓国に行っているが、自分の意志で出かけたわけではなく、雑誌の取材である。結局、1987年の取材旅行以後、韓国に行くことはなかった。旅行者としてもライターとしても、ややこしい朝鮮半島とのつきあいは読書だけで充分だった。旅はもっぱら東南アジアだった。当時の台湾も、韓国同様反共専制国家だったが、何度か旅行している。韓国ほど狂暴(凶暴)ではないと感じたからだろう。それは私の個人的な感想ではなく、大方の日本人の感想だっただろうと思う。
関川さんは、韓国のさまざまでしかも大量のややこしさは一応頭に入れても、職業的観察者としてソウルを眺めた。旅行前に、韓国語教室に通っているから、「行った、食った」だけの旅行記ではない。
インドもまたややこしい国で、私は旅行者としてもライターとしても、1978年以後近づかないまま現在に至っているのだが、インドのややこしさを前面に出さずに今までなかったインドを描いたのが、天下のクラマエ師こと蔵前仁一さんの『ゴーゴー・インド』(1986)だった。
私は、「ややこしさ」や「うっとうしさ」が苦手なのだ。東南アジアの微笑みとはとても相性がいい。東南アジアでは、旅行者を放っておいてくれる。わずらわしさはない。始終怒鳴っていることもない。じつに、おだやかに旅できる。