2148話 ソウル2024あるいは韓国との46年 その43

韓国も日本も、変わった 4

 四方田犬彦の思い出話をつまんでいく。

 1979年、四方田は蚕室(チャムシル)で下宿生活を送った。蚕室は1988年のソウルオリンピックの会場で、巨大テーマパークであるロッテワールドなどで知られている場所だが、1979年当時は「アパートの周囲は何もなく、土埃でもうもうとした道を20分も歩けば農村となった」という場所だから、ソウルの中心地まで満員バスで50分かかった。地下鉄が開通するのは1980年である。1978年に、ソウルとはいえ畑が見えるホテルに泊まっていた経験があるから、79年の蚕室は想像ができる。

 「学生はみな貧しかった」。女子学生は誰も化粧をしていなかった。学生たちは「アルミの弁当箱にご飯とキムチだけ詰めたものを持参し、昼時になると弁当に熱湯をかけ、蓋をして豪快にシェイクし、「ビビンバだ」と自嘲しながら食べていた。

 朝鮮戦争が終わってからしばらくたっても、米の生産量はそれほど増えなかった。満足に米の飯が食べられないのだ。1960年代には、飲食店では米に雑穀などを混ぜた混合食を義務づけるだけでなく、週に2日は、米の飯を出さない日と決められた。米が足りない分は、アメリカからの援助小麦の利用が奨励され、そこで登場したのがインスタントラーメンだ。1963年のことだ。結果的に韓国が「国民ひとり当たりのインスタントラーメン消費量世界一」になった。韓国のインスタントラーメンの生産に明星食品が多大な協力をしたという過去を描いたのが、『インスタントラーメンが海を渡った日: 日韓・麺に賭けた男たちの挑戦』(村山俊夫、河出書房新社、2015)だ。この本は出てすぐに読み、「おもしろかった」という記憶があるが、なぜかこのアジア雑語林では紹介してなかった。しかし、同じ著者による『アン・ソンギ――韓国「国民俳優」の肖像』は、376話で紹介している。

 学校では弁当の飯はちゃんと雑穀入りかどうか検査する弁当検査も行なわれた。70年代末には混合食の義務はなくなったようだ。そのころの国民一人当たりの米消費量は130キロほどで、それ以降消費量は減っていく。混ぜ物なしの白米を充分に食べられるようになったのは、都市部に住んでいる人たちだけで、「銀シャリ」を毎日食べることはできない人たちがまだいた。

 韓国KBSの食文化番組「韓国人の食卓」は「すばらしき韓国の食文化」を見せる番組だから、都市の貧困層の食事風景を紹介した回はなかったと思う。しかし、山村離島の食事風景を伝える回だと、村民が食事をしながら、「昔は米の飯なんか、年に何回かしか食べられなかったなあ」と言いながら、村の伝統食を食べているというのはよくあるシーンだ。そういう会話をしている人たちは老人たちではなく、1950~60年代生まれの、放送当時の中高年なのだ。山村で育った40代の女性は、中学を出て街で働くようになって、初めて毎日白米を食べるることができたと話していた。場所によっては、1980~90年代でも、米が満足に食べられなかったのだ。この番組を見ていると、「ソウルの事情」を「韓国全体の事情」して論じてはいけないことを教えてくれる。

 ちなみに、日本で米の消費量がピークに達するのは1962年で、118キロだった。現在は55キロにまで減った。米の世界史は、いままで米を食べなかった人たちが、喜んで米を食べるようになるという歴史なのだが、充分食べられる量がありながら食べなくなった最初の国はおそらく日本で、次は台湾、その次が韓国だろうか。タイでも消費量は減っていて、バンコクではピーク時の半分くらいまで減っているという資料があるが、米を原料にした麺の消費は多いので、米粒の消費といっしょにはできないという問題がある。資料の誤差を読む必要がある。