2149話 ソウル2024あるいは韓国との46年 その44

韓国も日本も、変わった 5

 1980年代でも、ソウルのほとんどすべての場所は、特権階級でなければバスで移動するのが当たり前で、私は短期間の滞在だったがバスに乗る苦労はよくわかる。

 バス停は、バスを待つ人であふれている。そこにバスが次々に来て停車すれると、バス停は駅のホームのようにバスが列車のように止まっている。5台か10台が停まると、人々はバスの行先表示を見て、自分が乗るバスに走っていく。大混乱だ。『韓国バス事情』でも運転手自身が認めているのだが、長時間労働に疲れた運転手は、自主判断で勤務時間を減らすべく、バス停を飛ばして通過する。下車する客は降ろすが、もう客は乗せないで突っ走るということらしい。バンコクはもっとひどい。バスを下りる客がいても、無視する。私が被害者のひとりだ。タイ人の空気をわきまえない外国人だから、車内で「おろせ!」とわめき、車体の金属部分を力いっぱいたたく。運転手は、「まあ、しょうがねえなあ」とニタニタしながら、その辺でバスを止める。

 バス停では、乗りたいバスが来れば、手を振って「乗るよ」という意思表示をする。運転手と目を合わせ、すっかりと乗る意志を伝えているのに、運転手はニタニタ顔でバス停の民を嘲笑して素通りする。殺意を覚える瞬間だ。真夏に1時間以上バスを待っているのだ。

 バンコクのバスの想いでは、いくらでもある。もっともひどかったのは、路線バスが渋滞につかまると、裏道に入ってしまうのだ。夜のバスだったが、車内の電気を消して、「頭を下げてください」と乗客に呼び掛けた。ルートを外れるから、この先のバス停で降りる人は、ここで降りてくれと、車掌が大声でしゃべっていた。路線ルートを外れて走っているから、見つかるとまずいと思っているようだ。

 韓国のバスは、さすがそこまではひどくないだろう。

 『韓国がわかる60の風景』(林史樹、明石書店、2007)は、バスの1章を割いている。いい話はない。「急発進、急停車、急ブレーキも日常茶飯で、バスを乗り降りしようとした老人が転がる光景を見たことは一、二度ではない。老人を敬うはずの韓国における、思わぬ一面である」。

 1980年代のソウル取材時でも、バスはそんあものだった。取材と言っても、毎日バス通勤しているようなものだったが、寒風吹きつけるバス停でじっとバスを待つのはつらいものだ。幸運にもすぐにバスに乗れたとしてもひどい渋滞で、目的地にいつ着くのかわからない。同じ時代の、東京のバス通勤よりも、エネルギーを消耗しそうだ。

韓国のバスとタクシーは、あいかわらずひどいものらしい。官僚や政治家はバスに乗らないから、そのひどさがわからないのだ。

 「みんな、必死で生きてきました」という解説がつきそうな写真だ。これが、1976年。私が初めて行った韓国が78年。こういう時代の韓国を見ているのだなあと、時の流れを想う。

 

 1977年の韓国。この2枚の写真は、大韓民国歴史博物館の展示から。

 1987年のソウル取材は、文章も写真も私が担当したので、工夫次第で時間がうまく使えた。夕方に時間ができたので、地下鉄に乗ってみようと思った。ソウル駅から清涼里駅まで乗ってみた。ホームの自動販売機など駅風景を撮ろうとカメラを出して、少しおびえた。外国人が交通機関の撮影して逮捕されるという話を聞いた。軍事施設や橋や駅の撮影が禁止されているという噂があり、「いや、理由なんかなくても逮捕するさ。韓国はそういう国だ」という話のも説得力があった。2024年に地下鉄に乗っていて、警察におびえていた昔を思い出していた。

 今の韓国しか知らない人は、「それは被害妄想だよ」と切り捨てるかもしれないが、理由のない話ではない。『ソウルAtoZ』(尹学準ほか、集英社文庫、1988)に収録されているコラム「定着した市民の足―ソウルの地下鉄」(黒木和博)によると、筆者は地下鉄のホームで写真を撮ったら2度注意を受け、一度は駅長室に連れていかれ尋問されたことがあるという。

 私自身には、こういう経験がある。1978年の釜山でユースホステルの場所を探していて交番が目についたので、地図を見せながら場所を聞いたら、巡査は「パスポート!」と叫び、ショルダーバッグのなかに手を突っ込んで検査をした。そして、ユースホステルなんて知らないよと、ジェスチャーで意思表示した。

 85年の取材はカメラマンといっしょだった。どこで夕飯を食おうかとふたりで歩いていたら、交番の前で呼び止められた。カメラマンの荷物が気になったらしく、まずパスポートの検査のあと、バッグのなかを徹底的に調べられた。警官の虫の居所いだいでは、連行されることもある。警察は何でもできる国だった。

 あのころの韓国は、そういう国だったのだ。だから恐れられていたし、嫌われてもいた。