2171話 ソウル2024あるいは韓国との46年 その66

食文化を眺める 6

 1987年の金浦空港から始まる話の続きだ。

 雑誌編集部から渡された取材スケジュール表によれば、きょうはこれから空港から南下して、利川(イチョン)で陶芸の取材をすることになっている。

車に乗るとすぐ、「途中で昼ご飯を食べて、それから利川に向かいます」と説明があった。車内も当然、強烈に臭かった。しばらく走って、木造の食堂に入った。店内は、お好み焼き屋のように、鉄板付きの座卓がいくつかあるだけの小さな店だった。こういうテーブルだから、何かの専門料理の店なのだろうが、それがどういうものかまったくわからなかった。

 コーディネーターはこの仕事が気に食わないのか、それとも人見知りなのか、必要最小限のことしか口にしない。運転手ともそれほど話をしない。料理の注文をしたようだが、もちろん何を注文したかはわからない。テーブルに座ってしばらくの沈黙の後、店員がパットに何かをのせてやって来て、パットのなかのものを熱した鉄板にぶちまけた。カラカラという軽い音が店内に響いた。白かった物体が溶けてきて、それが冷凍された肉片だとわかった。

 豚肉を焼き、サンチェ(カキチシャ)で巻いて食べる。食べ方はサムギョプサルと同じなのだが、サムギョプサル(三枚肉)ではなくロースだった。当時の日本では、この手の鉄板焼肉はほとんど知られていなかったと思う。ブタのばら肉とその焼肉をさす「サムギョプサル」という料理は、1960年代末から70年代に食べられ始めていたようだが、80年代に入っても、まだありふれた料理ではなかったようだ。だから、1987年当時の韓国でもマイナーな存在だったのではないか。日本人にもよく知られるようになったのは、東京・新大久保の韓国料理店が話題となる2000年代からだろう。わかりやすく言えば、スンドゥブチゲ同様、日本人には「冬ソナ以降の韓国料理」と言っていいようだ。

 ふたりの韓国人の真似をして、私もサンチェで肉とキムチとニンニクスライスを包んで食べた。大量に食べた。ニンニクが入っていた器を店員に示し、店員に「ニンニクとキムチのお代わりをください」というジェスチャーをした。私は肉と同じくらい、ニンニクとキムチと生トウガラシが大好きなのだ。

 「そんなにニンニクを食べたら胃に悪いですよ」とコーディネーター氏に注意を受けたが、かまわず食べ続けた。日本と違って、ここではキムチが食べ放題だからうれしい。

 その昼食以降、韓国滞在中、口臭が気になったことはない。車内や店内が臭いと思ったこともない。並の韓国人以上に、この日本人はニンニクを毎日口にして、全身ニンニク臭男に変身していたのだ。

 利川に着いて、陶芸家の家に案内された。取材の中心は韓国陶磁器に関する物語ではなく、陶磁器のある町の風景写真撮影だから、陶磁器のことはほとんど勉強していない。もしかして、テレビで見たことがある窯から陶磁器を取り出すシーンが撮影できればいいなと期待していたのだが、考えてみればラーメン屋の餃子じゃないんだから、毎日焼いているわけはない。「この窯で焼いています」という写真を撮って、おしまい。陶芸家へのインタビューもしたが、私に知識もないうえに下調べもしていないので、失礼な言動になってしまったかもしれない。白磁に興味がないというより、そもそも陶磁器にほとんど興味がないのだ。陶芸家は日本時代に教育を受けた人なので、通訳なしでインタビューができたが、その内容はまったく覚えていない。覚えているのは、書棚に高そうな日本語の陶芸資料が並んでいたことくらいだ。そういえば、作業場の隣りに作品展示館があったなあ。

 利川のあと時間があったので、多分コーディネーターのサービスで、そこからそれほど離れていない韓国民俗村に案内してくれた。そこは85年にも来たことがある。その時は鉄道とバスで来た。昔の韓国の村を再現しているが、博物館というよりテーマパークのような気がした。時間があれば、ひとりでじっくり眺めたいが、「ちょっと寄り道して、休憩」程度の入場だったので、たいした印象も残らなかった。