2209話 世代3 洗濯機

 奈良の村で暮らしていた1950年代の生活を思い浮かべると、ときに涙が出そうになることがある。赤貧洗うがごとき生活をしていたわけではないが、母の苦労を思うと胸が詰まりそうになるのだ。

 村に電気は来ていた。というより、その電源開発の建設作業のために我が家がこの村に来たのだが、「電気のない村」の記憶はない。電気はあったが、水道はまだなかった。水は庭に掘った井戸から汲んでいた。手押しポンプで組みだした水をバケツに入れて、台所の水がめに移す。食器洗いや洗濯は井戸端でやっていた。その頃の母の労働に何の疑問も抱かなかったが、風呂を考えていて「ああ」と声をあげそうになった。バケツに汲んだ何十杯かの水を風呂桶に移し、薪で風呂を沸かす。母は小柄で左手が不自由だった。幼稚園児の私は水運びの戦力にはならず、姉もまだ幼く、母がひとりでやるしかなかった。

 そんな母の苦労を知った父はトタン板で筒を作り、手押しポンプで汲んだ水を風呂桶に注ぐシステムを作り出した。これで、水をバケツで運ばないですむ。もしかすると、私の記憶は父がすでにトタンのパイプを作ってからで、バケツで水を運んでいた姿は空想で、実際には見ていないのかもしれない。

 高校時代の同級生たちにそんな話をしたら、「内風呂なんて、なかったよ。銭湯だよな」と何人かが言った。首都圏の街育ちだと内風呂などないのが普通だったのだが、銭湯などない農村や郊外住宅に住んでいた家族は、家に風呂はあったが、燃料や煙突掃除など大変なことはあった。

 洗濯機が我が家に姿を見せたのはテレビより後だ。はっきりした記憶はないが、1960年前後のことだ。二層式が出るちょっと前で、ローラー式絞り機がついていた時代だ。ウチに洗濯機があったということは、水道が使えるようになったということなのか、井戸水をバケツで汲んで洗濯機に注いだのかという記憶が欠けている。ガキだから、家事に注目していないのだ。

 のちに母が「どんな電気製品よりも、洗濯機がありがたかった」と話していたが、そのことがバンコク暮らしで少しはわかった。バンコクではまだコインランドリーなどほとんどない時代で、洗濯屋に依頼するには量が少なすぎたから、手洗い生活だった。とはいえ、熱帯の生活だから、1日に何度も着替えしていたから、洗濯はほぼ毎日のことだった。

 下着やシャツなどを手洗いするのは苦労ではないが、こすり、絞り、またこすり、絞る工程を繰り返すと、生地が傷むのが目に見えるようだった。シーツやジーンズなどの洗濯は、洗うことよりすすぎが大変だった、ちゃんと絞れないとせっけん液がついたままで、何度すすいでもせっけん臭かった。タイの洗濯石鹸は、「アワが大量に出ることが優良品」という信仰があり、やたらに泡立ちがよかったから、その泡を消すのが苦労だった。

 しかし、熱帯の洗濯だから、水が冷たくてつらいということはなかったし、いい加減に絞ったシーツでも、乾季なら屋上で干せば1時間くらいで乾いた。そういう意味では気楽な洗濯だった。

 いろいろ苦労してきた母だが、「あれは、ホント、つらかった」とこぼしたのも洗濯だった。私が生まれるちょっと前のことだが、一家は群馬県の山奥でひと冬を過ごした。ダム建設の仕事だ。姉ふたりは、まだおしめをしている。おしめはまとめて洗うことはできないから、毎日川に行って洗う。雨が降っても雪が降っていても、おしめは汚れるのだがら、川に行かなければならない。雪降る日にも、川で洗濯だ。「もう、指がちぎれそうになるのよ」と母は言った。そのせいで、群馬県にはいい印象はなかった。

 NHKテレビのドラマ「おしん」が何度目かの再放送を見たことがある。辛抱のかたまりのようはおしんでさえ、「もう、こんな生活いや!」と奉公先から逃亡するのが、真冬の雪降るなか、川でおしめを洗っているときだった。母もまた、おしんと同じように雪降る川べりで洗濯をしていたのだ。

 母が電気洗濯機を手にしたときは、おしめが必要な子供はもういなかったが、冷たくつらい家事労働から解放された喜びがあったことが想像できる。

 テレビと同じように、私の世代は、家に洗濯機がなかった最後の時代を記憶しているのかもしれしれない。なんの説明もなしに、「ローラー式絞り機付き」なる物の意味がわかる世代だ。