先週金曜日。神保町散歩。古本屋のワゴンセールで『サバンナ農地林の社会生態誌』(藤岡悠一郎、昭和堂、2016)購入。定価6000円の学術書が1000円だったから買ったのだが、もちろん「おもしろそうだった」というのが購入の第一理由。つまらない本ならタダでもいらない。昭和堂は京都の出版社で、京都大学関係者の本を多く出版している。この本の巻末広告を眺めると、『焼畑の潜在力』や『食と農のアフリカ史』などが気になる。古本屋の後、ディスク・ユニオンに寄る。Buddy De Franco(クラリネットのジャズ)の4枚組CDを購入。今は、本やCDを買っているのは老人趣味らしい。そのせいで、スマホ頭にならないですんでいるんだから、いいのさ。電車で本を読んでいる乗客が、私以外にもうひとりいた。
さて、世代の話の続きだ。
1970年代初めころのテレビニュースだった。大学で学生が抗議行動を始めた理由のひとつは、「授業料の3倍に値上げ反対」というものだったが、その内容が「月額1000円を3000円に値上げはひどすぎる」という抗議だったが、私には「たった1000円!?」という驚きだった。当時、特別な体力や能力が要求されるような仕事でなければ、時給150円くらいだったから、1日1000円稼ぐのはなんということもないのだが、その金額で授業料が賄えることに驚いた。年額1万2000円だから、12日働けば、年間授業料が支払える。ということは、国立大学に進めれば、働きながら大学に通うということも可能だったということだ。
知り合いのライターにそんな話をしたら、「そう、そうだったよ」と簡単にいうので、思い出した。当事者だったのだ。彼は私と同い年で国立大卒だ。だから、授業料値上げ反対闘争の現場にいたのだ。学生の抗議はあったが、1975年に授業料は3倍に値上げされ、年額3万6000円になった。寮は月に数百円程度のはずだから、東大生ブランドを利用して家庭教師などをすれば、この額でもなんとか自活できる。
文部科学省が発表した「国立大学と私立大学の授業料等の推移」を見ると、翌76年には9万6000円に上がっているから、74年の8倍だ。1980年には18万円だから15倍だから、もう無茶苦茶な値上げだ。
ということは、私の世代で国立大学に進んだ者は、授業料が1万2000円時代の最後を体験していることになる。1956年生まれが事実上の最後の世代になる。
雑多な話をしているなかで、「ずっと大学生をやっていたかったんだよね」と言ったのは、冒険家にして医師の関野吉晴さん。1949年生まれ。一橋大学法学部に入学したのが1968年、卒業したのは75年だが(もう留年できなかった)、すぐさま社会学部に編入するも、翌年横浜市立大学医学部に入学した。一橋大学時代は1万2000円時代で、寮費などタダ同然で、肉体労働して資金を貯めて外国に探検旅行をしていたから、こういう生活をいつまでもしていたいと思ったようだが、旅先で受けた好意に報いたいと医者への道を歩み出した。そういう理由で「遊んで、稼ぐ大学生」を引退したのだが、やはり時代的には、国公立大学の学生なら親の援助がなくても自活できた最後の時代だったというわけだ。
そういえば、インドネシア文学の巨峰プラムディヤ・アナンタトゥールの翻訳をした押川典昭さん(1948年生まれ)も、東京外国語大学に、たしか8年いて、もう留年できないから卒業して大学院に進んだんじゃなかったか。雑談をしていた時の話なので、正確かどうかわからないが、そんな話をしていたような気がする。授業料が月1000円なら、大学は異能の人が生まれ育つ施設でもあった。
大学が少なかったから、税金の援助があって、安い授業料を設定できたのだ。今は大学が増え、自分の名前くらい書ければ、九九もABCも知らなくても、定員割れ大学に入学できる。高校も推薦なら、小学生のおつむのままで、大学に入学できる。そういう大学にも補助金を出すから、授業料全体が高額になるのだ。大学で学ぶ意思と学力のない若者がいる大学を維持できるように、税金を補助しているのが現状だ。関野さんも押川さんも、毎日大学に通っていたわけではないが、様々な方法で勉強していたから、のちに教授になったのだ。勉強する意思と学力があったというわけだ。