我がパソコンにこの原稿が残っているが、どこかに発表したものか記憶がない。2008年に書いたようだが、下書きだったかという記憶もまったくない。内容からして「旅行人」に書いた原稿だろうが、書いた記憶がない。すでに発表した原稿かもしれないが、書いた本人が当時のことをまったく覚えていないのだから、読んだ読者がいたとしても、覚えていないだろう。だから、ここで公開することにした。願わくば、『新版大幅増補 旅行人風雲始末記 詳細年表付き』の出版を願うが、社主はもう書く気はないだろうから、誰か腕の立つライターが書いてくれ。『蔵前仁一と日本人の海外旅行史』がテーマだ。私が調べたいのは、旅行人という企業の歩みではなく、「旅行人とその時代」である。観光学の博士論文にどうだろう。
今まで書いてきたことと重複する部分はかなりあるが、多少手を入れつつ、2008年に書いた原稿をこれから11回に分けて紹介する。
旅行人の20年 旅行人と世界旅行20年 1988~2008
旅行者は、自分の好みと財力と才覚で旅行したと考えているだろうが、その人の旅行には旅行をとりまく歴史や背景がある。「行こう!」と思ったからどこにでも行けるというわけではなく、その旅行が可能な政治的経済的要素などすべてを合わせた旅行事情があって、その人の旅行が可能になったのだ。交通機関や宿泊施設やビザなどすべての旅行事情が旅を可能にしたのだ。昨今の旅の本のほとんどは、「行った、撮った」の旅行体験を語る場所になっているが、そのうちの何人かは旅行事情史を考える人であってほしい。
「旅行人」の前身となる「遊星通信」が創刊されたのは1988年、ちょうど20年前になる。この20年間に、日本人の海外旅行がどう変わったのかという話を、1985年9月22日から始めたい。すべては、この日から始まったのである。
この日、ニューヨークのプラザホテルに、先進5カ国の大蔵大臣と中央銀行総裁が集まった。会議の目的は、アメリカの輸出を増大させるために、高すぎるドルを安くすることだった。そして、日本の輸出を抑え輸入を増大させるために、円高を容認する。これが、いわゆる「プラザ合意」である。
効果はてきめんだった。9月22日の対ドル円レートは235円だったが、翌日には一気に20円高くなった。円相場は1985年のうちに200円を割り、86年には160円を割った。87年にはプラザ合意時の約半分(実は倍の価値)の121円。円相場が120円からスタートした88年に、「遊星通信」が創刊されたのである。
蔵前仁一の旅は、本人が意識しているかどうかはわからないが、『地球の歩き方』の出版と連動している。『アメリカ』が出た年にアメリカに行き、『インド』が出てインドに行った。そして「遊星通信」はプラザ合意と連動している。
「世はバブル景気に浮かれていた」と、世相を表わす資料には書いてある。1986年から91年まで続いたいわゆるバブル景気の、まさに真っ只中に「遊星通信」が生まれたということになるのだが、創業者である蔵前編集長にも、貧乏ライターの前川にも、バブルに浮かれて甘い汁を吸っていたという体験や実感はまるでない。実感はないものの、売れる原稿を書けない私のようなライターにも執筆依頼があったのだから、やはりわたしもまた「バブル時代のライター」だったのだろう。こうして1980年代後半の歴史を振り返ってみると、急激な円高傾向のなかで、高額なブランド品や海外旅行への関心が高まっていった時代だったということは、よくわかる。つまり、「海外旅行なんか、特別なもんじゃないよな」という時代になったのだ。
テレビ番組にもその傾向が現れてくる。円高のおかげで、海外取材が安くなり、場合によっては国内取材よりも安くできるようになった。「クイズ 世界SHOW by ショーバイ」、「クイズ地球の歩き方」、「世界の常識・非常識」といった番組が生まれた。現在も続く人気場番組「世界の車窓から」の放送が始まったのは、1987年である。また、海外で撮影したテレビCMが増えたのも、このころだ。ある音楽関係者の話では、「ロサンゼルス録音!」なんていうレコードの宣伝文句は、それがかっこいいからというよりもむしろ、録音作業を日本でやるよりもアメリカでやったほうが安かったからだという。
1986年の海外渡航者数は552万人。それからわずか4年後の1990年には、倍の1100万人になっている。渡航者数が1500万人を越えるのは、1995年である。