2271話 日本人の海外旅行史 52

 なんの予備知識もなしに見た韓国映画「藁をもつかむ獣たち」は殺人エンターテインメント。キャストもいい。テンポのいい展開は「最後まで行く」(イ・ソンギュン)を思い出させる。今調べたら、「藁を・・」は日本の小説が原作なんだね

 さて、以下の文章は、アジア雑語林ですでに書いた原稿だが、旅行史に関係するので、かなり手を加えて再録する。

 

 バンコクの伝説的ホテル「タイ・ソン・グリート」

 インターネットで昔のタイの情報をいろいろ探していたら、こんなサイトを見つけた。室料の点でいえば、超々低級宿であるタイ・ソン・グリートの在りし日の写真が唐突に現れた。

 バブル時代以前の1980年代の、たぶん前半にはもう消えてしまったオンボロ宿だから、活字資料が少しはあるかもしれないが、まさか写真が残っているとは思わなかった。

 Thai Song Greet Hotelという宿は、バンコク中央駅、通称フアランポーン駅を出てラーマ4世通りを左に曲がってすぐの、バス停そばに建っていた。駅近辺には文字通り、何軒かの駅前旅館があって、タイ・ソン・グリートもその一軒なのだが、世界を放浪する貧乏旅行者たちに、何かのきっかけでその名を知られていた。一階が飯屋で、階上が客室になっている典型的な旅社である。

 「バンコクに行ったら、タイソンに行け。旅の情報はそこで手に入る。知り合いに再会できるかもしれない」という話が、インドで、ネパールでささやかれ、ガイドブックなどない時代の旅行者は、その言葉だけを頼りに、バンコクに着いたらタイソンにむかったのである。インドからタイに着いたばかりの私も、「バンコクに行ったら、タイソン」という情報をネパールで入手した日本人旅行者にドンムアン空港で知り合い、彼の案内で空港前からバスに乗り、その安宿にたどりついたのである。1973年のことだ。

 その当時、大通りに面したうるさい部屋は25バーツ、裏側の少しは静かな部屋は30バーツだったはずだ。日本円で言えば、当時の30バーツは約450円である。学生アルバイトの時給が、150円から200円くらいの時代である。

 伝説的安宿タイ・ソン・グリートについては、『バンコクの好奇心』でやや詳しく書いているので、もっと知りたい人はそちらを参照されたい。インターネット上にも情報がいくらかある。

 さて、写真の話だ。ネット上の写真のおかげで、三十数年ぶりにタイ・ソン・グリートに再会できて、しばしセンチメンタルジャニーをしていたのだが、店頭の看板が気になった。記憶のなかのタイ・ソン・グリートの看板は、「Thai Song Greet」というローマ字と、「泰松」という漢字だったのだが、その漢字が確認できない。あまり鮮明ではない店頭写真だから、看板の文字もはっきりとは見えない。タイ語と英語と中国語の3言語で書いてある。

 英語で「THAI SONG GREET HOTEL」と書いてあるのははっきりと読める。

 漢字は「○○○大旅社」で、3文字の漢字があることはわかるが、それがどういう字なのか判読できない。泰松という2文字が入っているのか、いないのかもわからない。

 タイ語はあまり鮮明ではないので、タイの友人とメールのやりとりをして解読した結果、タイ・ソン・グリートではないという驚くべき結果が出た。「ロングレーム・タイ・ソン・キット」なのだ。いままでずっと、宿の名前を間違えていたのだ。ロングレームは旅館、ホテルのことだからいいとして、タイは、タイ国のタイ。ソンは、意味はいくつかあるが、もっとも普通なのは、英語のstyleにあたる語だ。キットは「仕事」のことだが、社名や屋号の一部としても使う語らしい。私のタイ語力では、全体としてどういう意味かよくわからないが、仮の訳として、泰流旅社としておこう。

 どうにも理解できないのは、kitがなぜgreetというローマ字表記になったのかということだ。kriitがkitと表記することはあるが、その逆は考えられない。

 というわけで、誰かがgreetとローマ字表記したために、外国人は皆「グリート」と間違った名で呼んできたのである。35年目に偶然わかった真実である。

 “South-East Asia on a Shoestring”(lonely planet,1977)は236ページの本で、”Thailand”の章はわずか24ページである。オーストラリアからヨーロッパを目指す若者には、タイは回り道になる国だった。ラオスカンボジアベトナムにはまだ入国できない時代だ。このガイドブックでは、「タイソングリートはほかのどのホテルよりも古くから旅行者のノートにメモされている」と書いている。

 ”On The Road Again”(Simon Dring , BBC Books , 1995)に、1962年のインドで、すでにこのホテルが旅行者の間で知られていたという記述が出てくる。詳しくは373話参照。