高校時代の友人から、「境川が死んだ」という知らせが届いたのは、昨年の夏だった。もう何年も前から病気ばかりしていて、サラリーマン時代から障害者手帳を持っていたから驚きはないが、「ああ、終わったか」という感覚だった。
ヤツのことは、このブログでたびたび書いてきた。高校のわがクラスには、英語が大好きという生徒が何人かいて、ひとりは保守本流の受験勉強をして、東京外国語大学へ進み、一流企業に入った。あいつはそういう受験英語にはほとんど興味がなさそうだった。
ある日の英語の授業。教師が教科書の英文を取り上げ、「ここは、つまりどういうことだ。わかるやつ?」というと、手をあげて立ち上がり、その回答を英語でしゃべりだした男がいた。それがヤツの最初の思い出だ。
「日本の英語教師は英語で話はできないのだ」と書いたのは予備校の英語教師でもあった小田実で、それは1950年代のことだが、私の高校時代の60年代でも事情はほとんど変わらなかった。中年の英語教師の大学時代は、終戦直後から50年代だ。GHQと深い関係があるとかアメリカ育ちの帰米2世でもなければ、英会話を聞く機会は映画くらいしかない。ましてや、英語をしゃべる機会などまったくない。英会話など受験に関係ないから、高校でも教えようという気配はなかった。入試に役立つ授業ができれば、立派な英語教師だったから、会話力など必要なかったのだ。
あいつの英語の説明を聞かされた英語教師も同様で、「ぼくの説明でいいですか?」で終えたヤツの話に、「まあ、え~」としどろもどろに声を漏らすだけで、教師は英語で対応することなどできなかった。
その後、ヤツといろいろ話をしていると、私と同じように、いつか外国に行ってみたいと思っているらしい。読んだばかりの『海外無銭旅行のすすめ』(栗原富雄、日本文芸社、1969)の話をしたら、あいつも読んでいて、「北欧で仕事を探してさあ・・」などとその本の話をした。ちなみに、この本はけっこう売れたようで、71年に「10版」(正確には「10刷)とするべきだろうが)、と奥付けにあるのを見つけた。日本脱出に必要な書類や船や飛行機の情報など詳しく書いてあるから、日本脱出願望がある若者を大いに刺激した。
高校時代のヤツの話は、このアジア雑語林の、1580話、1581話、1584話などに書いた。
境川の奥さんが友人に送ったメールを、私に転送してくれた。私は知らなかったのだが、ヤツはオーディオマニアだったらしく、壁一面に高そうなオーディオ機器が積んである。棚にレコードが詰まっている。そういえば思い出した。高校を出て1年か2年後だったと思うが、ヤツはアメリカに行き、半年ほど過ごした。1ドルが360円の時代だからアルバイトで稼いだカネの半分は親に借りた旅費の返済に充て、残りの半分はアメリカでスピーカーを買ってきたんじゃなかったか。
そのスピーカーもあるかもしれないオーディオ機器の壁の写真。レコードプレーヤーの上に、あたかも遺影のようにレコードが1枚たてかけてある。IT'S A BEAUTIFUL DAYの同名アルバム“IT'S A BEAUTIFUL DAY”だ。ヤツの愛聴盤だったのか。ジャケットが有名だから私でも知っているが、曲を聞いた記憶がない。パソコンで聞いてみたが、知っている曲は1曲もない。別のアルバム” Marrying Maiden“には知っている曲があった。「でもバイオリンのロックなら、パパ・ジョン・クリーチだろ」と、メールの写真につぶやき、ユーチューブでパパ・ジョン・クリーチを部屋に流した。ヤツが生きていれば、音楽の話ができたのに。それが、私流のレクイエムだ。
ヤツが死んだのは昨年の夏で、いずれこのブログで取り上げたいと思っているうちに時が流れた。今年の春、突然IT'S A BEAUTIFUL DAYが頭に浮かんで、すぐに境川のことを書こうと思ったときは海外旅行史の長い連載をしていて、7月まで伸びてしまい、そろそろ1年になる。あらためてヤツのことをブログで書こうと思った理由のひとつは、彼の名前、境川幸一郎をブログに書いておけば、デジタル世界では生き続けるわけで、誰かが検索すればこのブログに当たるかもしれない。学生服を着た「カラスの十代」のヤツが、このアジア雑語林のなかでは至る所に出没させるために実名を書いておく必要があった。
つまらない進学校にも、おもしろいヤツはいたんだよ。