『歩々清風 金子智一伝』で描かれた金子智一の生涯は2本の柱が貫いている。ひとつはユースホステル協会の活動と、それに関連する日本ウォーキング協会の活動である。もうひとつの柱は、インドネシアだ。戦時中、陸軍ジャワ派遣軍報道班員としてインドネシアに滞在し、独立運動を支援していた。戦後、それが原因でイギリス軍にとらわれ、2年間投獄生活を送った後、日本に帰国した。そういう過去があるので、日本とインドネシアとの友好関係に力を注いだ。
そういうことはこの本を読めばわかるのだが、もう少し調べると、意外な事実がわかった。資料の出典は、インドネシアの日本語新聞「じゃかるた新聞」(2013-3-2)だ。記事のタイトルは「変わりゆく安宿街 宿泊客との交流希薄に 首都中心のジャクサ通り」
ジャカルタの安宿街として、ジャクサ通り(ジャラン・ジャクサ)は一部には知られた場所だが、インドネシアを目指す旅行者は首都ジャカルタではなくバリに行ってしまうので、バンコクのカオサンのように巨大化していない。ささやかなで静かな安宿街だ。
この通りに安宿が誕生するきっかけを、この新聞記事が伝えている。
日本ユースホステル協会常任顧問で、日本の軍政期にジャワ島にいたことがある金子智一氏が、インドネシアにやって来た。インドネシアには宿泊施設が少ないので、ユースホステルを作りたいという要望だった。日本ユースホステル協会とインドネシアの旅行社の間の通訳を務めたのが、アメリカ留学経験があるナタナエル氏で、ユースホステルの話を聞いているうちに、「自分がやろう」と決意して、自宅と2棟の家を改築して、ジャラン通りにオープンしたのが、国際ユースホステル協会登録のユースホステルになった。1969年のことだ。2007年にこの通りのホテル数がピークで、以後廃業が続いていて、さびれてしまった。かつては長期滞在者もいて、家族的な付き合いがあったが、今ではほんの数日の滞在するだけで、旅行者と交流することなどなくなり寂しいというのが、この新聞記事だ。
このジャクサ通りの安宿に何度か滞在している。私が初めてここを訪れたのは1974年だった。思い起こすと、そのときは2軒以上の安宿があったと思う。私が泊まっていた宿は2段ベッドのドミトリーで、しかも安くはない。知り合いが泊まっているところに遊びに行くと、なんだか良さそうだ。宿のロビーで知り合いと話をしていると、お母さんのような方が、お茶とクッキーを出してくれた。「宿泊者じゃないんです。別の宿に泊まっています」と、お茶を遠慮したら、「いいんですよ。ここに来てくれた人は、みなさんうちのお客様ですから」といってにっこりした。当然、すぐにこの宿に移った。その宿が、記事にあったインドネシア初の公認ユースホステルだ。「お父さん」に当たる人は、英語が堪能で、インドネシアの観光や交通に詳しく、旅行者の質問に親切に応えてくれていた。
日本のユースホステル活動の本を読んでいて、1974年のジャカルタに出会うとは思わなかった。