京都帝国大学旅行部は、戦時下で解散した。もともと山岳部はなかった。戦後、新制大学となって山岳部はできたが、1956年に山岳部、探検部、ワンダーフォーゲル部に分離した。探検部創設の中心人物はのちに朝日新聞記者になる本多勝一だが、梅棹忠夫のアジテーションが後押しした。
梅棹忠夫はもともと山登りの人だった。幼いころから地元京都の山々を登っていた。小学校を5年で終え中学(旧制)に進み、中学は4年で終えて第三高等学校に入った。ほかの人より2年先行しているのだが、高校時代に山登りに夢中になり2年留年し、ほかの生徒と肩を並べた。京都大学に進んだころから、少し方向が変わってきた。梅棹の表現では「垂直移動よりも、水平移動の方がおもしろくなってきた」という。山に登って、昆虫や植物の観察をして、下山するという遊びよりも、農山村に行き、人間の文化を探る方がおもしろくなってきたというのだ。このあたりの変化は、梅棹の自伝『行為と妄想』(梅棹忠夫、中公文庫、2002)に詳しい。
梅棹の興味の変化を前川流に解釈すると、自然から人間の生活へ、理系から文系へ、生物学から民族学へと関心が移って来たということではないだろうか。
京都大学の山岳部員が探検部を作ろうという動きをみせたときに、梅棹助教授がどういう発言をしたのか、本多が書き留めている。『京大探検部 1956~2006』(京大探検者の会編、新樹社、2006)から引用する。
「問題は山に登ることよりも、『外国旅行法』の経験をつむことである。日本にひとりでも多くそのような経験者が増すことが大切だ。ワンダリングでもいい。6000メートル級なんかに登れなくたっていい。あるいは登山界からは批判が出ようが、そんなものは言わせておけばよろしい」
「とにかく目標を『旅行』とするだけで十分やな。文化(カルチャー)の異なる民族というものの扱いかたがどんなに難しいものかは、まさに『知る人ぞ知る』で、これはどうにもならん。(中略)文化が違っているところでは、一方の価値判断なんか全然通用せん。互いにその違いを認めあうほかない。そのうえでドライな友好関係をもつこと。そういった認識をハダで身につけるためには、一人でも多くの若者が異民族と接することだ。しかもなるべく日本人とは反対の性格を持った民族がいい」
これを前川流に解釈すると、「これからの若者は、より高い山に登ることを目指すのではなく、より広い世界を見ることが重要だ」ということだろう。
こういう教えを受けた学生たちは探検部員となって外国に行き、異文化を体験した。大学卒業後はマスコミや研究職、そして企業で異文化と関わる仕事をした。
そして、1964年。海外旅行が自由化されて、探検部員にならなくても自分個人の考えで外国を旅行できるようになった。
国内では、登山、ハイキング、ピクニック、ワンダーフォーゲルが娯楽であった50年代、60年代。みんなで歌いながらのハイキング、歌って踊るキャンファイヤー。
私の記憶に残る歌は、まず文部省唱歌だ。「春が来た」、「朧月夜」、「虫のこえ」、「故郷の空」、「牧場の朝」など多数。童謡・唱歌のジャンルに入っているものでは、「アルプスいちまんじゃく」、「うみ」(うみはひろいな・・・)、「海」(松原遠く・・・)、「静かな湖畔」、「夏の思い出」(夏が来れば思い出す・・・)などなど、小中学校のバス旅行のときに歌わされた記憶がある。それが、1950~60年代のみんなの歌だ。若者たちは、そういう歌を歌いながら野山を歩いた。そういう時代だったのである。カネのない若者たちにとって、野山を歩き、キャンプをして、あるいはユースホステルに泊まる旅がせいいっぱいの楽しみだった。そして60年代末のカニ族(横長のリュックを背負った旅行者たち。おもに北海道に出没。バイク旅行者も多い)が登場した。旅行者を国鉄から奪おうと航空会社は若者割引制度を作る。全日空は1966年からスカイメイトを開始し、全線割引対象になるのが、1974年3月だった。旅行先によって違うが、「学割で国鉄の夜行列車に乗る」という旅から、「安い飛行機で旅をする」という時代に移っていくのが、1970年代だった。
1970年代中ごろになると、小金を持った若者や、小金持ちになりたいと願う若者たちは「フォークソングなんて、貧乏くさい」として、ユーミンやサザンを聞きながら、ドライブやスキーやサーフィンなど「身近な贅沢」に手を伸ばしていった。中産階級の子供、あるいは大都会に住む中産階級に憧れる若者は西海岸ブームに乗り、胸にUCLAと大きく書いたトレーナーなどを着ていた。雑誌「BRUTAS」(平凡出版)の創刊は1980年だが、「誰でもアメリカ西海岸に行く」という時代はまだやって来ない。平凡出版の、そういう「おしゃれ」になじめない若者の一部は、貧乏旅行者となってヨーロッパやインドを目指した。