2098話 若者の世界旅行 24 日本の『森の生活』2

 作家火野葦平に関して、このブログで長い話を書いた(「神保町で火野葦平に出会う」2016-06-15の834話以降)。そのなかで、『森の生活』と小田実の話を書いたので、その大筋を紹介する。

 話は、神保町で見つけた『アメリカ探検記』(火野葦平、雪華社、1959)から始まる。火野はアメリカ政府から「2か月自由に旅行していい」という不思議な旅行に招待された。「なぜ招待されたのか」という理由はわからないまま、招待を受ける。1958年のことだ。

 火野の旅行記に、こういう文章があった。

 「車に乗り、ウォルデン湖に行く。ここは自然詩人であったヘンリー・ダヴィッド・ソーローが住み、『ウォルデン湖物語』を書いたことで有名である」

 火野葦平の『アメリカ探検記』の時代に、「たしか、小田実アメリカを旅していたはずだが・・・」と思い、調べてみた。

 小田のアメリカ留学は、ウィキぺディアでは、「1959年、米フルブライト基金により渡米」とあるが、『何でも見てやろう』には、「58年の夏」と書いてある。1958年夏から60年4月までが小田の旅だ。火野の旅は1958年9月から2ヶ月間だから、同時期の旅になるわけだが。小田26歳、火野は51歳。親子ほど歳が違う。

 『アメリカ探検記』のほぼ最終のページに、こういう記述がある。

 「十月十六日 ボストン最後の日。明日はシカゴへ飛行機で飛ぶのである。

 午後五時、ハーバード大学東洋学教室のジョン・F・フェアバンクス教授の家で座談会。大学構内にあるニューイングランド風な簡素な家。コーヒーとサンドイッチ。教授や夫人、学生、日本人、朝鮮人など三十人近くが集まって来る。その中に、河出書房にて、『明後日の手記』『わが人生の時』などを書いた小田実君がいてびっくりした」

 なんと、ふたりはハーバードで偶然会っているのだ。小田が自己紹介したかどうかわからないが、この売れっ子作家が、大学を出たばかりの若き作家を知っていたことも驚きだ。

 さて、この日のことを小田は何か書いているだろうか。書棚から『何でも見てやろう』を取り出して、ページをめくると、「火野」という文字が目に入った。ちゃんと傍線が引いているのに、この部分、読んだ記憶が消えている。

 ハーバードで茶話会のようなものがあり、「火野氏は最近の中国について即席のスピーチを求められた」とある。火野は戦時中に兵隊で1度、報道班員として1度中国に行っていて、戦後は1955年に訪中しているから、その変化を体験している。

 火野のスピーチに対して、「火野氏は明らかにわれわれの一員だが、すくなくとも、そういう考え方が万雷の拍手をもってむかえられることはない」と書いた。

 「われわれの一員」というのは、中国を支持している者たちという意味だ。「そういう考え方」というのは、スピーチの内容だ。火野は現在の中国について、「中共には餓死はなくなったが、自由もなくなった」と言ったが、小田が期待した表現は、「中共に自由はなくなったかもしれないが、餓死もなくなった」だった。つまり、小田にとっては、我々日本人はちょっと前まで餓死寸前だったのだから、食えるようになるのがイチバンで、その部分を強調するべきであって、自由があるかどうかなど云々したくないというようなことを書いている。この年、終戦から13年、食糧難時代からまだ10年もたっていないことを考えれば、小田の「食えるようになるのがイチバン」という考えは理解できるのだが、のちの小田の行動や発言を考えれば、おそらく、共産国と自由の問題には触れたくないのだろう。そうでなければ、北朝鮮支持の本は書けない。

 1959年12月 火野『アメリカ探検記』出版

 1960年1月 『アメリカ探検記』重版(増刷といった方がいいだろう)。同年1月24日、「火野葦平、心臓発作。自宅で急死」と報道された。

 1961年2月 小田実『何でも見てやろう』出版。

 1972年、火野の13回忌に際して遺族が、「火野の死因は病気ではなく、睡眠薬による自殺だった」と公表した。戦時中、戦意高揚の文章を書いてきたことに、自責の念に苦しめられていたという。

 火野の両親が生きた時代を描いた小説が『花と龍』(1953)で、たびたび映画化された。火野の父、玉井金五郎役は高倉健石原裕次郎が演じている。火野の妹の子供が、アフガニスタンで銃撃されて亡くなった医師、中村哲(1946~2019)である。