1970年代や80年代に、経済的な余裕がある若者は、数は多くなくてもインドにも香港にもいたが、彼ら彼女らがリュックを背負って旅に出ようとは考えなかった。金持ちは、家族そろってヨーロッパやアメリカに出かけることはあった。若者が留学するということはあった。台湾や韓国の若者も、海外旅行自由化されたあとも団体旅行には参加しても、個人ではなかなか国を出なかった理由のひとつは、個人旅行になじまない文化があるからだろう。
大学の仲間を誘って、「みんなで、どーっと旅するか」というのは、韓国の海外旅番組でもおなじみの構成だ。たえず深く強い結びついた団体生活と団体意識のなかで生きているアジア人たちにとって、「異文化のなかで、ぽつんとひとり」など、寂しくて耐えられないのだ。二人でも、寂しいのだ。スペインやイタリアの若者も、家族や友人との関係が密な社会で育つと、「旅の孤独」に耐えられないという気がする。だから、どうしても、集団での移動になるから、気ままにフラフラという旅にはなりにくい。
ヨーロッパの安宿でアジア人に会ったことはあるが(アジアで日本人以外のアジア人旅行者に会うのは2000年代に入ってからだ)、彼らは留学生であったり仕事探しをしていたりで、「旅行者」とはだいぶ違っていた。
1975年冬のアムステルダムの安宿では、客の半分くらいは中東や北アフリカからやって来た留学生や仕事探しの若者たちだった。滞在資格は留学生で学費は無料だが、生活費を稼ぐために、安宿で稼げる仕事情報の交換をしていた。あるいは公費留学とか奨学金を得ている学生は、生活費の心配なしに、大学の休暇を利用して広く旅する若者もいた。
1970年代初めにパリ大学に留学した玉村豊男は、学生運動で大学が閉鎖されたという状況を利用して、ヨーロッパ各地を旅した。はっきりとした記憶ではないが、旅行資金はパリで通訳などをやったのではなかったか。その時の旅行記が、『ぼくの旅のかたち:東ヨーロッパひとり歩き』(海田書房、1985。のちに『東欧・旅の雑学ノート』と改題して中公文庫に入った)だ。2年間の留学を終えて帰国した玉村は、自分のカネではもう2度と海外旅行はできないという絶望感に襲われ、添乗員のアルバイトを始めた。
1950年代から60年代はもちろん、70年代前半でも、若者の海外旅行は「最初にして最後の体験」という意識はあった。私にもあった。1973年の旅が「生涯最初で、しかし最後」だと思って日本を出たが、帰国したら「なあんだ、簡単に日本脱出できるじゃないか!」ということがわかり、以後しばしば外国に行くようになった。